篠原八幡神社_3853

郵便局に行ったついでに、菊名から新横浜の篠原口まで歩きました。菊名駅の南側の錦が丘という住宅街をのぼっていくと、丘の上から篠原北町という住居表示に変わります。そして、丘を越え迷路のように入り組んだ道を下ると新横浜駅の篠原口に出るのです。もっとも、遠くに見える新横浜のビル群を目印に下っていけばいいので、方向さえ間違わなければそう道に迷うことはありません。

横浜はどこもそうですが、丘が連なるこのあたり一帯も、見事なほど宅地造成され住宅地が広がっています。丘の上にはアパートもありますが、駅からだと15分も20分も坂道をのぼらなければならないし、近所には店もないし、夜道は物騒な感じだし、よく借りる人がいるなと思いますが、なぜか結構人気があるのだそうです。月極めの駐車場も1万5千円くらいするそうで、そんなに安くはないのです。

丘のちょうど突き当りに、鎮守の森の名残のような木々に囲われた篠原八幡神社がありました。境内では作業着姿の年老いた男性がひとり草むしりをしているだけで、ほかに人の姿はありませんでした。

篠原八幡神社は、無病息災の霊検あらたかな神社だそうで、私も一度お参りしたいと思っていましたので、やっと念願が叶った感じでした。静謐な空気が流れるなかで、パンパンと柏手を打つと、やはり凛とした気持になるものです。

今、NHKブックスの『「かなしみ」の哲学-日本精神史の源をさぐる』(竹内誠一著)という本を読んでいるのですが、そのなかで、綱島梁川の「神はまず悲哀の姿して我らに来たる」(『病間録』)という言葉が紹介されていました。また、源信の『往生要集』に出てくる「悲の器」という言葉も紹介されていましたが、私は高校の頃、高橋和己の『悲の器』という小説が好きでした。「悲の器」である人間にとって、神や仏が「まず悲哀の姿をして我らに来たる」のだと思えば、なんだか救われる気持になります。この年になると、神や仏はいてほしいと思います。

余談ですが、『「かなしみ」の哲学』では、つぎのような哲学者の西田幾太郎の文章も紹介されていました。私はそれを読んだとき、石巻の大川小学校をはじめ、今回の震災で我が子を亡くした親たちのことが連想されてなりませんでした。

人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれは親にとっては耐え難き苦痛である。・・・何としても忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめてわが一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。・・・おりにふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。(『思索と体験』)

著者の竹内誠一氏は、「それがいかに苦痛であろうと、そうした生者の『いたみ(いたましさ・いたわり)』を通してしか死者はその存在をこちら側に現わすことはできない。『悼む』とは、そうした営みである」と書いていましたが、それはもはや宗教的な営みと言ってもいいのではないでしょうか。教義や教団なんてどうでもいいけど、じっと目を瞑って手を合わせる気持というのは、やはり大事じゃないかと思います。

神社の石段をおりようとしたら、前の道を学校帰りとおぼしき女子中学生たちがキャーキャー嬌声をあげながらとおりすぎて行きました。丘の上に突然現れた女子中学生たちに思わずびっくりしましたが、道を下って行くと途中に中学校がありました。彼女たちにとっては、丘の上のこの迷路のような道は通学路なのです。

道を下りきると、目の前に新横浜駅の白い建物がそびえてきました。その建物をめざして昔の農道のような曲がりくねった細い道をひたすら進んで行くのでした。やがてたどり着いた駅前には小さなロータリーがありましたが、表口と比べると、同じ新横浜駅の駅前とは思えないほどのどかな雰囲気が漂っていました。


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2011.07.16 Sat l 横浜 l top ▲