
『群像』(講談社)9月号に掲載されていた川上未映子の新作「すべて真夜中の恋人たち」を読みました。
それにしても、小説を読むと、どうしてこんなに疲れるのだろうと思います。おそらく、それだけこっちの感性がゆさぶられるからでしょう。小説を読むというのは、ある意味で身体的な行為だと言えます。読むことで激しくゆさぶられる感性。そして、作品をとおしてみえてくる自分という存在。電子書籍云々の問題ではなく、ネットに抗する文学の存在価値は絶対にあるのだと思います。だから、私たちは小説を読みたいと思うのでしょう。問題は、作家がそれに応えることができるかどうかではないでしょうか。
私は私であって私ではない、そんな存在の不確かさは、この作品でも描かれているように思います。たとえば、主人公の親友の石川聖のつぎのようなことばが象徴的です。
「・・・なんだかね、たとえばさ、うれしいとか悲しいとか、不安とか、色々あるじゃない。テレビみて面白いなあとか、エビを食べておいしいなあとか、なんでも。でもね、そんなのっていつか仕事で読んだり触れたりした文章の引用じゃないのかって思えるの。何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからないのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持になるのよ」
「引用?」
「そうね。自前のものじゃない感じ」
「それは実感がもてないということ?」
「ううん。それとはちょっと違くて。実感があるから、これがあほみたいなのよ」と聖は言った。「ひとそろいの実感も手応えもあるから、混乱するのね。でも、信じきれない。だからこれはいったいなんだろうって、何か思ったり感じたりするたびに、そんなあほみたいなことを思うのよ。(略)」
さしずめ埴谷雄高なら、これを「自同律の不快」と言ったかもしれません。だから、恋愛にしても、土台になる感情がぐらぐらなのだから、深刻に考える必要はない、と聖は言います。実際に、聖は「誰とでも寝る」と陰口をたたかれるくらい、多くの男性ととっかえひっかえつきあっているのでした。
一方、主人公の入江冬子は、聖とはまったく逆のタイプの女性です。34才になる今ままで恋愛体験はほとんどなく、「年に一度だけ、誕生日の真夜中に、散歩に出ることが楽しみ」であるような孤独な人生を送っています。でも、そんな孤独にいつまでも耐えられるほど、人の心は強くありません。酒を飲めなかった彼女も、孤独の日々を徐々に酒でまぎらすようになっていくのでした。
そして、たまたま訪れたカルチャーセンターで、彼女は、58才の物理の「高校教師」(のちにそれがウソだとわかる)である三束(みつつか)と知りあい、恋がはじまるのでした。ただ、その恋愛は、「アホらしい」と思えるくらい、ただ「三束さん」「三束さん」と心のなかで呼びつづけるだけのような、奥手でプラトニックなものです。しかも、そんな恋愛でも、彼女は酒の力を借りなくては向き合うこともできないほどでした。
”平凡”と”凡庸”は違うのだと思いますが、この恋愛はきわめて”凡庸”なものです。光はなにかに反射しないと視覚できないので、私たちがみている色は、無数の光のなかのごく一部の光が反射したときにみえる色にすぎないのだという、光についての会話に、川上未映子の真骨頂である哲学的なきらめきが垣間見えるような気がしないでもありませんが、この小説で描かれている恋愛には、残念ながらそういった哲学的な深みにつながるようなリアリティはありません。それに、この小説に出てくることばも、「乳と卵」や「ヘヴン」のような輝きは感じられませんでした。
(略)三束さんの顔をみないまま頭を下げ、テーブルを離れ、外へでた。扉まで、八歩だった。この夜の入り口のどこでこんな音が生まれるのか想像もできないほどの雨のなかに立てば、わたしの全身は一瞬で輪郭を奪われ、目をあけることもできなかった。バッグの底から、髪の先から、ひじから顎から雨は流れ落ち、わたしはスニーカーのなかのかかとで雨を踏み、これ以上はひきのばせないくらいの長い一歩を何度もかさねた。角をまがるところまで来たとき、ぎゅっと目を閉じて、息を吐いた。そして祈るような気持ちで五秒をかぞえ、ゆっくりとふりかえってみた。でもそこには、誰の姿もなかった。
こういった三文小説のような”凡庸”な描写をみせつけられると、やはり、興ざめせざるをえないのです。むしろ、10年ぶりに会った高校の同級生の早川典子の不倫の告白とつぎのようなもの言いのほうがはるかにリアルティがあるように思いました。
「なんで入江くんにこんな話ができたのかっていうとね」と典子は言った。
「それは、入江くんがもう私の人生の登場人物じゃないからなんだよ」
典子は私の顔を見て、にっこりと笑った。
「そうじゃなかったら、わたしはこんな話、人に言えなかったわ」
私たちのような煩悩具足の凡夫が生きているのは、石川聖や早川典子のような世界なのです。そして、そんな”平凡”な日常から自分との格闘がはじまるのだと思います。電気を消しても物に吸収されない一部の光は、窓から外に飛びだして宇宙空間に逃げていくこともあるという三束の話は感動的ですが、そういった話が暗示する”生の深淵”も、むしろ石川聖や早川典子のなかにあるのだと思います。
二番煎じだとかパクリだとかといったネットでのいわれなき中傷も、歯がゆい作品の出来からきているような気がしないでもありません。いづれにしても、この程度の小説はジレッタントたちが集まる同人誌などにいくらでもあるのではないでしょうか。
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