
つらくて心が折れそうなときどうするか。あてどもなく街をぶらついたり、片端から友達に電話をするという手もあります。それから小説を読んだり映画をみるという手もあります。
体調が悪い上に嫌なことがたてつづけにおきて、かなりしんどい気分なのですが、そんななかで、津村記久子の『ワーカーズ・ダイジェスト』(集英社)を読みました。
この小説の主人公はふたりいます。苗字は同じ「佐藤」、年齢も同じ32才。しかも、誕生日も同じ1月4日です。
ひとりは、佐藤奈加子。大阪の小さなデザイン事務所で働いていて、副業でライターをしています。もうひとりは、佐藤重信。東京に本社がある工務店で働いています。でも出身は大阪で、やがて大阪支社に戻ってきます。
ふたりは、重信が勤める会社の会社案内を作るための打ち合わせで初めて対面します。そのとき、お互いの偶然の一致に驚き、奇妙に印象が残るのでした。ふたりとも32才という年齢に心がゆれています。
奈加子は、学生時代からつきあっていた恋人の孝と別れたばかりです。そのことに対しての自省がときどき奈加子の頭をかすめます。
なんにしろ、自分を甘やかすことが少しは必要なのだと思う。そんなに自分に厳しくしている自覚もなかったけど、本当は自分はどうしようもなく甘ったれた人間で、だから無理していることの綻びが出てきて、周囲の人とうまくやっていけなくなるのだろう。
「孝に対しては特にそうだった」と奈加子は思います。
また、奈加子は職場の12才年上の「富田さん」との関係でも頭を悩ませています。最近、奈加子に対して「富田さん」の態度がとげとげしくなっているのを感じるからです。やけにつっかかってくるかと思えば、今度はわざと無視したような態度をとるのです。
そんなある日、飲み会の席で、友人の佐絵から「富田さん」の話を聞きます。佐絵は旅先で、偶然「富田さん」夫妻を見かけたというのです。そして、そのときの「富田さん」の態度は、「旦那さん自身がひくぐらい」夫に対して献身的なものだったというのです。奈加子は、その話を聞いて、つぎのように思うのでした。
「家で必死やから、職場で甘えたいんちゃう」
そうか、とうなずくと、そうよ、と佐絵は奈加子の方にフラメンカエッグの器を押しやる。
自分も孝も富田さんを見習うべきだったのかもしれない、とも思う。奈加子と孝は、彼女のまったく逆だった。お互い以外の世間に対して取り繕うために、痛みを持ち寄って毒し合った。富田さんは自分より一枚上手だと思う。どこで誰に心の廃棄物を捨てれば適切か、よくわかっている。
一方、重信は、「どんなに睡眠時間が短くても、ちゃんと決められた起床時間に起きられて、仕事には遅刻しない自信がある」ようなサラリーマンですが、反面「三十二年も動き続けたという事実が、みじめでも素晴らしくもなく、ただ不思議だと感じられ」るような孤独で受け身な人生を送っています。
突然の大阪支社への転勤の話も、「特によく考えずに、べつにいいっすよ」と答えるようなところがあります。大阪に帰っても、唯一の楽しみは、近所で見つけた古い洋食屋で「スパカツ」を食べることくらいです。
担当する工事に執拗にクレームをつけてくる家の奥さんから自宅に招き入れられ、「何があってもおかしくない」ような雰囲気になっても、重信の気持は冷めたままなのでした。
しかし、体が動かない。沸き立つものがない。
そういえば、彼女に限らず、欲しいものが何もないことを思い出す。そんな重信には、やりたいことが常に一つだけあって、それは家に帰って寝ることだった。
毎朝の通勤電車のストレス。仕事や人間関係におけるさまざまなトラブル。三十路で年を重ねることの焦り。この小説で描かれているのは、若いサラリーマンやOLの等身大の日常です。それが「ポストライムの舟」同様、津村記久子の真骨頂でもあるのでしょう。それに、彼女の小説に出てくる人間たちはみんな真面目なのです。そういった真面目さも津村記久子の特徴だと思います。
生きていくことはしんどいけど、でも明日も生きていかなければならないのです。そのためにはもっと肩の力をぬいて、自分なりの楽な姿勢でいることが肝要なのです。要は、そんな姿勢をどれだけ維持できるかではないでしょうか。そのためにも、「べつに何でも言い合わないし遠慮し合っているけど、ジャッジもし合わない気楽な友達が欲しい」と奈加子は思います。そして、ふと重信のことを思い出すのでした。
彼に、今日の自分について話したいとぼんやり思った。孝に対してそうしたように、同意と労りを強要するのではなく、ただ順を追って話したいと思った。立ち上がれないと一度は思っても、音楽を聴いた程度でまた動き始める安い体であることも。
私は、この小説を読んで、そういえば「三十路」ってこんな感じだったなと思いました。その年代にはその年代なりの人生模様があるし心のゆれがあるのです。でも、つぎの年代になればなったで、またつぎの人生模様と心のゆれが待っているのです。人生はそのくり返しで、いつだってしんどいのです。しんどいけれど、みんな必死に踏みとどまって生きているのです。(月並みな言い方ですが)だから人生には価値があるんだと思いたいし、そう思えるような小説だと思いました。
>>ポストライムの舟