マザーズ

金原ひとみの『マザーズ』(新潮社)を読みました。

先の震災をきっかけに結婚志向が強まったといわれます。3月11日の夜、首都圏では数十万人の帰宅難民が街にあふれたのですが、私はその姿をみて、どうして彼らは会社に泊まらないんだろう、駅の構内や体育館に泊まるより、会社の方がよほどいいだろうにと思いました。今や20代の半分以上は非正規雇用なので、会社に泊まれない(あるいは泊まりたくない)事情もあったのかもしれませんが、いづれにしてもあの光景は、ニッポンのカイシャももはや頼るべきところではなくなったという現代の世相を反映しているような気がしました。そうなるとよけい恋愛や結婚が”最後の拠り所”として、特権的な地位に浮上してくるのは当然ではないでしょうか。それはいわば究極の内向き志向だともいえますが、だからこそ小説家には、このベタな時代における結婚や家族の内実を奔放な想像力で描いてほしいと思うのです。その意味では、『マザーズ』は非常にタイムリーな作品だといえるのかもしれません。

この小説には三人の若い母親が登場します。薬物中毒で小説家のユカ。不倫相手の子どもを妊娠するモデルの五月。子どもを虐待している専業主婦の涼子。三人は同じ保育園に子どもをあずけているママ友です。もっともユカと五月は同じマンションに住み、仕事の上でも共通の知人がいました。また、ユカと涼子は高校時代のクラスメートで、偶然保育園で再会したのでした。

それにしても、この孤独はなんなんだろうと思いました。母親になることはこんなに孤独なことなのかと思いました。その孤独さはときに精神のバランスを崩すほどなのです。さらに、三人に共通しているのは、育児に対する夫の無理解と冷めた夫婦関係です。母性という幻想にしばられ、育児という自己犠牲を強いられて、ますます孤立を深めていく母親たち。一方で、我が子に対する愛情は、魂をゆさぶられるほど大きく深いものがあります。「母親なんだからそんなことは当たり前だろう」という男のもの言いのなかに、既に育児に対する無理解がはじまっているのです。それは我が子を虐待した母親を「鬼母」と呼ぶ世間やマスコミのもの言いと背中合わせなのです。

ある日、涼子は、壁に掛けられた写真立てのなかの自分たち家族の写真をみて、つぎのように思うのでした。

幸せそうに笑う人々が、じっとこっちを見つめている。写真の中の全ての人が偽物に見える。何かのドラマを演じているような、いや、もっと質の悪い、例えば安っぽい結婚式場のパンフレットに出ている偽物の家族、偽物の夫婦のように見える。あれは、かつて私が持っていた家族なのだろうか。それとも、私が思い描いていた理想の家族なのだろうか。でも、今だって、この中山家にカメラを向ければ、それなりに幸せそうな三人家族の写真が撮れるのだ。家族像なんて、そうして簡単に改竄され捏造されていくものなのかもしれない。


涼子は、「出産以来、自分がそれまでとは全く別種の生き物に、それこそ母というグロテスクな生き物になってしまったような気になる事がある」というのです。こういった危うさが、涼子がひとり息子の一弥に手をかけるようになる心の背景でもあるのでしょう。そして、つぎのような心の葛藤に苦しむのでした。

 一体何がいけないというのだろう。私は普通に好きな男と結婚をして、妊娠をして、一児をもうけただけだ。何が間違って、私はこうして毎日毎日満たされない思いを抱えたまま、満たされない気持で育児と家事を続けているのだろう。


私は彼の求める母性を持てない。それが悪いことだとは思わない。でも何故か罪悪感だけがある。自分は劣った母、劣った女であるという罪悪感だけがある。


私が今住んでいる家の近所には幼稚園や保育園が何軒もあり、子ども連れの若いお母さんたちをよく見かけますが(それどころか朝夕の送り迎えの時間帯は、通り抜けるのに苦労するほど舗道が母子で埋まっているくらいですが)、あのお母さんたちもやはり人に言えない孤独や危うさのなかにいるんだろうかと思いました。まるで草刈り機のようにベビーカーを押して狭い舗道を突進してくる姿に、そういった孤独の影をうかがい知ることはできませんが、もしかしたら家に帰ると一転して誰にも見せないような陰欝な表情をもっているのかもしれません。

孤独といえば、前に住んでいた埼玉の街の方が感じることが多かったように思います。近所に大きな公園があったのですが、典型的な新興住宅街のなかにあるその公園の芝生の上では、いつも若い母親のグループが車座になって、なにやらゲームなどをして子どもたちを遊ばせていました。私はその姿をみて、彼女たちはホントに幸せなんだろうかといつも思っていました。むしろ私は、そこに母親たちの孤独の影をみているような気がしたのです。

彼女たちは出産する前や結婚する前は、もっと仕事や遊びに溌剌とした日々を送っていたはずです。もちろん、結婚して子どもをもつということには、それとは別の充実感や幸福感があるのだろうと思いますが、一方で、それと引き換えに失ったものがあることもたしかでしょう。この小説のなかでも同じような言い方がありましたが、子どもを放置して遊び惚け、結果的に子どもを餓死させたネグレクトの「鬼母」の気持もわからないでもないのです。

もっとも、私は今まで父親になったこともないし、身近に若い母親がいるわけではありません。ただ、昔、仕事で知り合った若い母親と親しく付き合ったことがあり、小説を読んているうちに、ふと彼女のことを思い出しました。彼女は、独身の頃、他人が顔をしかめるくらい奔放な生活をしていたのに、結婚して出産した途端、独身の頃の自分はどこに行ったと思うくらい育児に夢中になり、子どものことしか考えられないようになったそうです。それだけ育児というのは、人を変えさせるものなのです。しかし、その半面、育児を自分に押しつけるだけの夫に対する不満も大きくなっていったのだとか。そして、「子どもはかわいいけどかわいいだけじゃない」「子どもを虐待する母親の気持もわかる」と言ってました。彼女がこの小説を読んだらどんな感想を持つのか、それを聞きたい気がしました。

一方、小説では五月の子どもの弥生が突然の交通事故で亡くなります。そして、そのことでこの小説は癒しと再生のトーンに一変します。ユカは夫と別れ、別の男性と再婚します。そして、そこにはもうヤク中のユカの姿はありません。涼子も夫と二人三脚で家族の再生をめざします。子どもを失った五月も、不倫を清算して夫にすべてを告白し、悲しみのなかで「愛しい物」への思いを再認識するのでした。

でも、ホントにそうなんだろうかと私は思いました。もちろん、この小説に、震災で強まったといわれる結婚志向のその先の風景が描かれているのは間違いないでしょう。でも、結婚や家族のなかにある孤独や危うさはそう簡単に乗り越えられるようなものなのでしょうか。それがこの小説がどこか尻切れトンボに感じる理由でもあるのです。
2011.09.28 Wed l 本・文芸 l top ▲