何年か前にも同じことを書きましたが、村上春樹が今回もノーベル賞を逃したというニュースには、ホッとしました。
一昨日、雨のなかを千駄木の病院にお見舞いに行ったのですが、地下鉄の千駄木駅から地上に出て、そのまま不忍通りを進んで行ったものの、いっこうに病院の看板が出てこないのです。そして、目の先に「道灌山下」の交差点が見えてきたとき、初めて病院とは逆の方向に向かっていたことに気付いたのでした。事前にネットで調べたつもりだったのですが、やはり方向音痴は方向音痴なのですね。「リアル」というのはそういうことなのでしょう。
土砂降りの雨のなか、ほうほうの体で病院に着いたら、ズボンは雨の滴がしたたるほどびしょ濡れになっていて、病人から「大丈夫ですか?」と反対に心配される始末でした。
そして、今夜、テレビを見ていたら、小沢一郎氏が同じ病院に救急搬送されたというニュースが流れ、そこが小沢氏のかかりつけだったことを知りました。救急車のなかで小沢氏は、苦悶の表情を浮かべていたのか、それともペロッと舌を出していたのか、どっちなんだろうと思いました。
政治資金規正法違反(虚偽記載)による強制起訴というのは、たしかにおかしな裁判です。小沢氏が言うように、社会的に抹殺しようとする政治的な謀略の疑いもぬぐえません。そもそも小沢氏を告発した「市民団体」なるものがどんな性格の団体なのか、マスコミがほとんど報道しないのも不可解な話です。
ただ一方で、先の菅内閣に対する不信任案の際に、小沢氏は自民党の有力者と水面下で接触して菅退陣を画策したのでした。こういった独善的な手法が、氏をして「剛腕」だとか「壊し屋」だとかいわれる所以でもあるのでしょう。
ネットの時代だとかなんとかいっても、政治は相変わらず旧態依然とした世界のなかにあるのです。坂口安吾は、「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である」(『続堕落論』)と言ったのですが、そういった政治や社会制度の網からこぼれおちる人間を描くのが文学のはずです。
しかし、戦前のプロレアリア文学とはまた姿を変えて、今の時代も政治に随伴する文学が多すぎる気がします。しかも、そんな文学に限って大きな顔をしてのさばっているのが今の文壇状況なのです。政治的エスタブリッシュメントの都知事が文壇のボス猿として君臨し、文学に政治の言葉を持ちこんでいることに対して、誰もおかしいと言わない(言えない)のです。おそらく坂口安吾だったら口をきわめてこき下ろしたことでしょう。
文学もまた旧態依然とした世界のなかで腐臭を放っており、小沢一郎をめぐる愚劣な政治の光景とそんなに変わらないのです。これじゃ文学が衰退するのも当然で、ラッパーの方がリアルな言葉の息遣いをもっているという「朝日」の記事(「下流」の現実リアルに 新世代ラッパー相次ぐ)も頷けようというものです。相変わらず下卑た”便乗商法”は多いのですが、少なくと若者をとりまくリアルな言葉は、村上春樹(現象)なんかとはまったく関係のないところにあることはたしかでしょう。
一昨日、雨のなかを千駄木の病院にお見舞いに行ったのですが、地下鉄の千駄木駅から地上に出て、そのまま不忍通りを進んで行ったものの、いっこうに病院の看板が出てこないのです。そして、目の先に「道灌山下」の交差点が見えてきたとき、初めて病院とは逆の方向に向かっていたことに気付いたのでした。事前にネットで調べたつもりだったのですが、やはり方向音痴は方向音痴なのですね。「リアル」というのはそういうことなのでしょう。
土砂降りの雨のなか、ほうほうの体で病院に着いたら、ズボンは雨の滴がしたたるほどびしょ濡れになっていて、病人から「大丈夫ですか?」と反対に心配される始末でした。
そして、今夜、テレビを見ていたら、小沢一郎氏が同じ病院に救急搬送されたというニュースが流れ、そこが小沢氏のかかりつけだったことを知りました。救急車のなかで小沢氏は、苦悶の表情を浮かべていたのか、それともペロッと舌を出していたのか、どっちなんだろうと思いました。
政治資金規正法違反(虚偽記載)による強制起訴というのは、たしかにおかしな裁判です。小沢氏が言うように、社会的に抹殺しようとする政治的な謀略の疑いもぬぐえません。そもそも小沢氏を告発した「市民団体」なるものがどんな性格の団体なのか、マスコミがほとんど報道しないのも不可解な話です。
ただ一方で、先の菅内閣に対する不信任案の際に、小沢氏は自民党の有力者と水面下で接触して菅退陣を画策したのでした。こういった独善的な手法が、氏をして「剛腕」だとか「壊し屋」だとかいわれる所以でもあるのでしょう。
ネットの時代だとかなんとかいっても、政治は相変わらず旧態依然とした世界のなかにあるのです。坂口安吾は、「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である」(『続堕落論』)と言ったのですが、そういった政治や社会制度の網からこぼれおちる人間を描くのが文学のはずです。
しかし、戦前のプロレアリア文学とはまた姿を変えて、今の時代も政治に随伴する文学が多すぎる気がします。しかも、そんな文学に限って大きな顔をしてのさばっているのが今の文壇状況なのです。政治的エスタブリッシュメントの都知事が文壇のボス猿として君臨し、文学に政治の言葉を持ちこんでいることに対して、誰もおかしいと言わない(言えない)のです。おそらく坂口安吾だったら口をきわめてこき下ろしたことでしょう。
文学もまた旧態依然とした世界のなかで腐臭を放っており、小沢一郎をめぐる愚劣な政治の光景とそんなに変わらないのです。これじゃ文学が衰退するのも当然で、ラッパーの方がリアルな言葉の息遣いをもっているという「朝日」の記事(「下流」の現実リアルに 新世代ラッパー相次ぐ)も頷けようというものです。相変わらず下卑た”便乗商法”は多いのですが、少なくと若者をとりまくリアルな言葉は、村上春樹(現象)なんかとはまったく関係のないところにあることはたしかでしょう。