今日の新聞につぎのような記事が出ていました。
この大倉山でも、福島第一原発の周辺域と変わらないレベルの汚染の実態があらためて確認されたのです。当該のマンションは自宅から直線で150メートルくらいの距離なので、他人事ではありません。それで、近所の知人とつぎのような会話をしました。
「この前、大綱小学校の雨樋から基準値を大幅に上回る放射線が検出されたばかりだが、今度はストロンチウムかよ」
「マンションの住民が屋上の堆積物を採取して、鶴見の分析機関に測定を依頼したらしい」
「たまたま?」
「そうだよ。すべてたまたまだよ。役所はみずから進んで測定しない。住民が自主的に測定して、それで放射性物質が検出されたら、そこで初めて腰をあげて、周辺を測定するだけだ」
「分析機関で調べてもらうのもお金がかかるんだろ?」
「そうだよ。お金もかかるし手間もかかる。しかし、役所が調べないので、仕方なく自前でやっているんだろう」
「じゃあ、たまたまということは、ほかにも調べればいくらでも出てくるということか?」
「おそらくそうだろう。だから、役所は調べないんだろうな」
「農作物も同じだよ。以前、南足柄産の茶葉から基準値を超える放射性物質が検出されたので、出荷停止の処置がとられたけど、じゃあ、ホントに茶葉だけなのか? ほかの作物は大丈夫なのか? それに南足柄だけなのか? ほかの地域は大丈夫なのか? そんな疑問は尽きない。やってることは、ただの子どもだましとしか思えない。しかも、しばらく経って放射性物質が検出されなくなったら、待ってましたとばかりに出荷停止を解除する。出荷停止も単なるポーズにすら思えるよ」
「一方で、『死の町』だとか『セシウム米』なんて言うと、焚書坑儒みたいに袋叩きに遭う。藤原新也氏も言ってたけど、人っ子ひとりいない光景を『死の町のようだ』と表現するのは『ありのまま』で、どこに問題があるというんだ。そうやって”風評被害”という言葉がひとり歩きして、『もの言えば唇寒し』のような空気を作っているんだ」
「問題はそういった『死の町』や『セシウム米』のような状況を作り出したのは誰か?ということだ。そうやって問題の本質が隠ぺいされ、批判の矛先が違うところに向いている(向けさせられている)気がしてならない」
「原発事故直後、避難した大熊町や双葉町の住民に、『東電に対して言いたいことはありますか?』と質問すると、住民は『いいえ、私達は東電を恨んでいません』と答えていた。そりゃそうだろう。原発が立地する自治体には湯水の如く交付金が注ぎ込まれ、住民の多くも原発関連の仕事に就いているんだから、東電の悪口なんて言えるはずがないよ。一方、なんら恩恵を受けなかった飯館村の住民は激怒して、謝罪に訪れた東電の幹部達を土下座させたけど、あれがホントの”被害住民の声”というべきだろう。しかし、テレビなどは当初、『私達は東電を恨んでいません』という声に、”日本人の美徳”なる似非イデオロギーを被せて、”被害住民の声”を捏造しようとしたんだ。そういう腰がひけた姿勢は未だつづいている」
「東電はTBSやテレビ朝日の株主でもあるしな。面と向かって批判できるはずがないよ。フランスのル・モンド紙は、東電批判をしない(できない)日本のマスコミを『犯罪的な沈黙』というタイトルで批判していたけど、海外のマスコミでは原子力産業に牛耳られた日本のマスコミの体質を指摘する声は多い」
「いづれにしても、250キロ離れた大倉山でもストロンチウムやセシウムが検出されるほど、東日本をおおう放射能汚染は深刻だということだ。にもかかわらず、政府も自治体もマスコミも、相変わらず問題を矮小化して、深刻な現状を糊塗することに腐心するだけなんだ」
何度も言いますが、なにも変わってないのです。”犯罪”はまだつづいているというべきでしょう。
横浜市は14日夜、港北区大倉山の道路の側溝から1キロあたり129ベクレルのストロンチウムが検出されたと発表した。ストロンチウム89と90を合計した値。同じ場所では、セシウムも3万9012ベクレル検出されている。
市民の独自調査で同区内のマンション屋上の堆積(たいせき)物から195ベクレルのストロンチウム90が検出された問題を受け、市がマンションの周辺から堆積物を採取し、鶴見区の分析機関「同位体研究所」に測定を依頼していた。
港北区は東京電力福島第一原発から約250キロ離れている。
(asahi.com 朝日新聞 2011年10月14日20時30分配信)
この大倉山でも、福島第一原発の周辺域と変わらないレベルの汚染の実態があらためて確認されたのです。当該のマンションは自宅から直線で150メートルくらいの距離なので、他人事ではありません。それで、近所の知人とつぎのような会話をしました。
「この前、大綱小学校の雨樋から基準値を大幅に上回る放射線が検出されたばかりだが、今度はストロンチウムかよ」
「マンションの住民が屋上の堆積物を採取して、鶴見の分析機関に測定を依頼したらしい」
「たまたま?」
「そうだよ。すべてたまたまだよ。役所はみずから進んで測定しない。住民が自主的に測定して、それで放射性物質が検出されたら、そこで初めて腰をあげて、周辺を測定するだけだ」
「分析機関で調べてもらうのもお金がかかるんだろ?」
「そうだよ。お金もかかるし手間もかかる。しかし、役所が調べないので、仕方なく自前でやっているんだろう」
「じゃあ、たまたまということは、ほかにも調べればいくらでも出てくるということか?」
「おそらくそうだろう。だから、役所は調べないんだろうな」
「農作物も同じだよ。以前、南足柄産の茶葉から基準値を超える放射性物質が検出されたので、出荷停止の処置がとられたけど、じゃあ、ホントに茶葉だけなのか? ほかの作物は大丈夫なのか? それに南足柄だけなのか? ほかの地域は大丈夫なのか? そんな疑問は尽きない。やってることは、ただの子どもだましとしか思えない。しかも、しばらく経って放射性物質が検出されなくなったら、待ってましたとばかりに出荷停止を解除する。出荷停止も単なるポーズにすら思えるよ」
「一方で、『死の町』だとか『セシウム米』なんて言うと、焚書坑儒みたいに袋叩きに遭う。藤原新也氏も言ってたけど、人っ子ひとりいない光景を『死の町のようだ』と表現するのは『ありのまま』で、どこに問題があるというんだ。そうやって”風評被害”という言葉がひとり歩きして、『もの言えば唇寒し』のような空気を作っているんだ」
「問題はそういった『死の町』や『セシウム米』のような状況を作り出したのは誰か?ということだ。そうやって問題の本質が隠ぺいされ、批判の矛先が違うところに向いている(向けさせられている)気がしてならない」
「原発事故直後、避難した大熊町や双葉町の住民に、『東電に対して言いたいことはありますか?』と質問すると、住民は『いいえ、私達は東電を恨んでいません』と答えていた。そりゃそうだろう。原発が立地する自治体には湯水の如く交付金が注ぎ込まれ、住民の多くも原発関連の仕事に就いているんだから、東電の悪口なんて言えるはずがないよ。一方、なんら恩恵を受けなかった飯館村の住民は激怒して、謝罪に訪れた東電の幹部達を土下座させたけど、あれがホントの”被害住民の声”というべきだろう。しかし、テレビなどは当初、『私達は東電を恨んでいません』という声に、”日本人の美徳”なる似非イデオロギーを被せて、”被害住民の声”を捏造しようとしたんだ。そういう腰がひけた姿勢は未だつづいている」
「東電はTBSやテレビ朝日の株主でもあるしな。面と向かって批判できるはずがないよ。フランスのル・モンド紙は、東電批判をしない(できない)日本のマスコミを『犯罪的な沈黙』というタイトルで批判していたけど、海外のマスコミでは原子力産業に牛耳られた日本のマスコミの体質を指摘する声は多い」
「いづれにしても、250キロ離れた大倉山でもストロンチウムやセシウムが検出されるほど、東日本をおおう放射能汚染は深刻だということだ。にもかかわらず、政府も自治体もマスコミも、相変わらず問題を矮小化して、深刻な現状を糊塗することに腐心するだけなんだ」
何度も言いますが、なにも変わってないのです。”犯罪”はまだつづいているというべきでしょう。