
朝日新聞の「回顧2011・文学」では、「圧倒的な現実を前にした時、フィクションに何が出来るのか――作家らは常に問うてきた」として、米国の評論家で作家の故スーザン・ソンタグが9.11から半年後に語った「物事の複雑な様相を示すのが作家の仕事だし、作家にはその責任がある」ということばを紹介していました。もちろん、この記事では、「圧倒的な現実」が東日本大震災を指しているのは言うまでもありません。しかし、私は、現代の文学にとっては、そんな大事件よりまずこの日常こそが「圧倒的な現実」なのではないか、と思うことがあります。そして、文学はその「圧倒的な現実」を前に限りなく後退しているように思えてならないのです。
同じ朝日新聞の文芸季刊誌『TRIPPER(小説トリッパー)』の最新号(2011年冬号) に掲載されていた、金原ひとみと窪美澄の対談「可視化された”母”の孤独」を読んでも、日常という「圧倒的な現実」を前に、あまりにも無防備な作家たちの姿が垣間見えているような気がしてなりません。
情報のフラット化が進んだ社会では、ことばは何にでも化けることができ、何でも創ることができる、あたかも万能であるかのようなイメージがあります。でも、文学が求めることばは、そんなことばではないはずです。
金原ひとみは、『マザーズ』について、つぎのように語っていました。
私はデビューのころのほうがしんどかったかもしれません。血肉を切り刻んで、自分も死にかけながら死にかけた人の小説を書いているようなところがありました。でも、『マザーズ』は朝起きて子どもを送って十時から書き始める、というような、ものすごく健康的な生活のなかで生まれた小説でした。
毎日死ぬと思いながら生きていたのが、いまは、「ああ、生きているんだな。明日も生きていくんだな」と思いながら書いている。それが、ある種の自信にもなっている気がします。
でも、文学というのは、やはり「血肉を刻んで」「死にかけながら」書くものではないでしょうか。私のなかには、文学は、「絶望」や「破滅」や「不幸」のなかにあるものだという観念があります。だから、文学は日常を突き抜け、私たちの胸を打ち、私たちの感情を震わせ、私たちの生を抉ることばを紡ぎだすことができるのではないでしょうか。「絶望」や「破滅」や「不幸」は、いわば作家の宿命だとさえ言っていい。
日常を回収する予定調和のことばとは真逆にあるのが、文学のことばなのです。でなければ、『マザーズ』を読むよりは、テレビドラマでもみたほうがよっぽど泣けるし面白い。今、文学を語る人たちは、『マザーズ』がただ純文学だからありがたがっているようにしか思えません。
金原ひとみもまた、原発事故の「放射能でガツンと、本当に殴られたような衝撃」を受けたそうですが、それがただ保育園に通う子どもに弁当を持たせるような、日常を保守するような方向に向かうのであれば、彼女の文学も日常という「圧倒的な現実」を前に後退し埋没していかざるをえないように思います。文芸評論家の斎藤美奈子氏は、朝日の記事では『マザーズ』を本年度のベスト3のなかに入れていましたが(なぜか読売では入れてない)、私はやはり、金原ひとみは『蛇にピアス』の金原ひとみでいてほしいと思います。あえて言えば、そこにしか文学の生きる道はないように思うからです。
>> 金原ひとみ『マザーズ』