いくらメンズビゲンで白髪を隠して若づくりしても、やはり寄る年波には勝てないのか、最近、なにかにつけ苛立つ自分がいます。まるで偏屈オヤジの予行演習でもしているかのように、いつもブツブツ文句ばかり言っています。香山リカの『キレる大人はなぜ増えた』や藤原智美の『暴走老人!』の現実が、早くも自分の身の上に訪れたかのようです。
今日も駅へ向かっていると舗道の先に若いカップルがちんたら歩いていました。駅前の舗道は二人がやっとすれ違うことができるくらい狭いのですが、そんなことはいっこうにお構いなしです。そのため、うしろからやってきた人たちも追い越すことができず糞詰まり状態になっていました。見ると、男の子はひょろと背が高くて、メガネをかけたタケノコのような感じでした。隣の女の子は森ガールのようないでたちで、玉ねぎのような髪型をしていました。
私も糞詰まりの行進に加わっていましたが、そのうちしびれを切らして、メガネタケノコと玉ねぎのカップルに突進することにしました。うしろから「すいません」と声をかけると、メガネタケノコと玉ねぎのカップルは、びっくりしたようにうしろをふり返り、「なに、この人?」みたいな顔をしているのです。どうやら自分たちが迷惑をかけているという認識はないようでした。そうなると、つい余分なことを口走りたくなるのがオヤジの習性です。
「邪魔っ!」
すると、玉ねぎは「怖い!」とでも言いたげに、メガネタケノコの腕を掴んだのでした。そして、二人は身体をずらしながら、「信じられない!」というような顔で私の方を見ていました。
私は、「信じられないのはお前たちだろう」と心の中で悪態を吐きながら、さっさと二人をぬかして歩いて行きました。でも、ほかの人たちは相変わらずメガネタケノコと玉ねぎのうしろで糞詰まりの行進をつづけているのでした。
土日になると、舗道にはベビーカーを先頭に横一列に並んで歩いている家族連れがいますが、そんな”家庭の幸福”御一行様が前からやってくると、どうすればいいんだ?と一瞬足が止まってしまいます。知人は「”家庭の幸福”を舗道にまで持ち込まないでくれよ」と言ってましたが、ここにも「私」と「公」の区別がつかない身勝手でけじめのないものの考え方が露呈されているように思います。「私」と「公」のどっちを優先するかということはないのです。「私」と「公」の区別がつかないことがだらしがないのです。
また、昨日はこんなこともありました。駅裏に東横線の線路の下をくぐるV字状の細い道があるのですが、自転車で通る人たちは、手前の下り坂ではずみをつけて先の上り坂をのぼろうとするために、みんな猛スピードで駆け抜けて行くのです。歩行者と接触したら大きな事故になりかねません。特に塾帰りの子どもたちに遭遇すると、壁に背をつけて彼らをやりすごさなければならないほどです。自転車の走行を禁止にすればいいのにと思いますが、なぜか横浜市はなんの対策もとっていません。それどころか、自動車も走行可能なのですから驚きます。(もっとも自動車といっても、軽自動車がぎりぎり通れるくらいの道幅しかないのですが)
夕方、その道を歩いていたら、前から小学生の女の子が猛スピードで駆け下りて来るのです。思わず「危ない!」とことばが吐いて出たほどでした。それこそ私の身体ぎりぎりのところを駆け抜けて行くので、自分がシールを売っていることも忘れて、「おい! 危ないじゃないか!」と自転車の女の子に向かって言いました。すると、あとから下りて来たお母さんが私に「あなたはなんですか?」と言いながら、「早く行きなさい!」と女の子を促して駆け上って行きました。道の上にはほかのお母さんたちもいて、みんなで私の方をジロジロ見ながら「いやね~」というような顔をしていました。私はまるで変質者のような扱いでした。
でも、盗人にも三分の理ではありませんが、偏屈オヤジにも三分の理はあるのだと思います。特に『愚民社会』を読んでからは、そんな場面に出くわすたびに、宮台真司の「田吾作」や大塚英志の「土人」ということばが頭に浮かんでなりません。
こうして苛立つのは、『キレる大人はなぜ増えた』や『暴走老人!』が言うように、年をとって時代からとり残される焦りのようなものもあるのかもしれません。たしかにみっともないし心が狭いのかもしれません。しかし、同じように無神経で身勝手な行為に苛立っている人は多いはずです。都会で生活する上ではこういった苛立ちは、むしろ日常的な光景だと言ってもいいかもしれません。
それどころか、電車に乗るときに人を押しのけて座席にすわろうとする人や、スーパーやコンビニのレジで前の人がまだ清算しているのにうしろからせかせるように買物カゴを差し出す人や、他人の迷惑をかえりみず舗道を我がもの顔で歩いているような人たちが、一方で「反戦平和」だとか「原発反対」だとか言っても、私は絶対に信用できないという気持があります。「反戦平和」や「原発反対」は正義なんだから、無条件に正しいのだ、というような考えには、私は組みしたくありません。「反戦平和」でも「原発反対」でもなんでも、そこにはなんらかの「留保」があるべきだと思います。『愚民社会』の中で、子どもを盾にした「原発反対」は母性的な(日本的な)ファシズムに通じていると二人が言っていたのも、同じような理由からでしょう。
大塚英志は、日本の自然主義文学はどうして私小説に帰結せざるをえなかったのか、そこに日本の近代のとん挫した姿があるというようなことを言ってましたが、たしかに私たちの「私」は近代の洗礼から生まれた「私」ではないのですね。それは近代がとん挫した悲しくもせつない「私」として在るのだと思います。そう考えると、「私」と「公共」の区別がつかないのも仕方ないのかもしれないと思ったりもしますが、でもやはり苛立つ。
今日も駅へ向かっていると舗道の先に若いカップルがちんたら歩いていました。駅前の舗道は二人がやっとすれ違うことができるくらい狭いのですが、そんなことはいっこうにお構いなしです。そのため、うしろからやってきた人たちも追い越すことができず糞詰まり状態になっていました。見ると、男の子はひょろと背が高くて、メガネをかけたタケノコのような感じでした。隣の女の子は森ガールのようないでたちで、玉ねぎのような髪型をしていました。
私も糞詰まりの行進に加わっていましたが、そのうちしびれを切らして、メガネタケノコと玉ねぎのカップルに突進することにしました。うしろから「すいません」と声をかけると、メガネタケノコと玉ねぎのカップルは、びっくりしたようにうしろをふり返り、「なに、この人?」みたいな顔をしているのです。どうやら自分たちが迷惑をかけているという認識はないようでした。そうなると、つい余分なことを口走りたくなるのがオヤジの習性です。
「邪魔っ!」
すると、玉ねぎは「怖い!」とでも言いたげに、メガネタケノコの腕を掴んだのでした。そして、二人は身体をずらしながら、「信じられない!」というような顔で私の方を見ていました。
私は、「信じられないのはお前たちだろう」と心の中で悪態を吐きながら、さっさと二人をぬかして歩いて行きました。でも、ほかの人たちは相変わらずメガネタケノコと玉ねぎのうしろで糞詰まりの行進をつづけているのでした。
土日になると、舗道にはベビーカーを先頭に横一列に並んで歩いている家族連れがいますが、そんな”家庭の幸福”御一行様が前からやってくると、どうすればいいんだ?と一瞬足が止まってしまいます。知人は「”家庭の幸福”を舗道にまで持ち込まないでくれよ」と言ってましたが、ここにも「私」と「公」の区別がつかない身勝手でけじめのないものの考え方が露呈されているように思います。「私」と「公」のどっちを優先するかということはないのです。「私」と「公」の区別がつかないことがだらしがないのです。
また、昨日はこんなこともありました。駅裏に東横線の線路の下をくぐるV字状の細い道があるのですが、自転車で通る人たちは、手前の下り坂ではずみをつけて先の上り坂をのぼろうとするために、みんな猛スピードで駆け抜けて行くのです。歩行者と接触したら大きな事故になりかねません。特に塾帰りの子どもたちに遭遇すると、壁に背をつけて彼らをやりすごさなければならないほどです。自転車の走行を禁止にすればいいのにと思いますが、なぜか横浜市はなんの対策もとっていません。それどころか、自動車も走行可能なのですから驚きます。(もっとも自動車といっても、軽自動車がぎりぎり通れるくらいの道幅しかないのですが)
夕方、その道を歩いていたら、前から小学生の女の子が猛スピードで駆け下りて来るのです。思わず「危ない!」とことばが吐いて出たほどでした。それこそ私の身体ぎりぎりのところを駆け抜けて行くので、自分がシールを売っていることも忘れて、「おい! 危ないじゃないか!」と自転車の女の子に向かって言いました。すると、あとから下りて来たお母さんが私に「あなたはなんですか?」と言いながら、「早く行きなさい!」と女の子を促して駆け上って行きました。道の上にはほかのお母さんたちもいて、みんなで私の方をジロジロ見ながら「いやね~」というような顔をしていました。私はまるで変質者のような扱いでした。
でも、盗人にも三分の理ではありませんが、偏屈オヤジにも三分の理はあるのだと思います。特に『愚民社会』を読んでからは、そんな場面に出くわすたびに、宮台真司の「田吾作」や大塚英志の「土人」ということばが頭に浮かんでなりません。
こうして苛立つのは、『キレる大人はなぜ増えた』や『暴走老人!』が言うように、年をとって時代からとり残される焦りのようなものもあるのかもしれません。たしかにみっともないし心が狭いのかもしれません。しかし、同じように無神経で身勝手な行為に苛立っている人は多いはずです。都会で生活する上ではこういった苛立ちは、むしろ日常的な光景だと言ってもいいかもしれません。
それどころか、電車に乗るときに人を押しのけて座席にすわろうとする人や、スーパーやコンビニのレジで前の人がまだ清算しているのにうしろからせかせるように買物カゴを差し出す人や、他人の迷惑をかえりみず舗道を我がもの顔で歩いているような人たちが、一方で「反戦平和」だとか「原発反対」だとか言っても、私は絶対に信用できないという気持があります。「反戦平和」や「原発反対」は正義なんだから、無条件に正しいのだ、というような考えには、私は組みしたくありません。「反戦平和」でも「原発反対」でもなんでも、そこにはなんらかの「留保」があるべきだと思います。『愚民社会』の中で、子どもを盾にした「原発反対」は母性的な(日本的な)ファシズムに通じていると二人が言っていたのも、同じような理由からでしょう。
大塚英志は、日本の自然主義文学はどうして私小説に帰結せざるをえなかったのか、そこに日本の近代のとん挫した姿があるというようなことを言ってましたが、たしかに私たちの「私」は近代の洗礼から生まれた「私」ではないのですね。それは近代がとん挫した悲しくもせつない「私」として在るのだと思います。そう考えると、「私」と「公共」の区別がつかないのも仕方ないのかもしれないと思ったりもしますが、でもやはり苛立つ。