毒婦。木嶋佳苗 100日裁判傍聴記

単行本になった北原みのり氏の傍聴記・『毒婦。木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』(朝日新聞出版)を、あらためて読みました。

同時に、『G2』(講談社)vol.10に掲載されていた佐野眞一氏の『木嶋佳苗裁判』全傍聴記」も読みましたが、北原みのり氏に比べると、お決まりの”おっさんの視点”で興ざめでした。「生まれついての犯罪者」「”毒婦”性」「怪物」などとレッテルを貼って、誰もが言えるようなことをただ言ってるだけです、しかも、デバガメたちへのサービスなのか、必要性もないのに、被告や被害者が住んでいたマンション名や勤務先などの個人情報を晒しているのも気になりました。

「私はこの女の恐ろしさを骨身に染みて知っている。実は私は木嶋佳苗に”殺され”かかったことがあるからである」と言うので、佐野氏も出会い系サイトで木嶋佳苗被告に遭遇した経験があるのかと思ったら、なんのことはない、別海町に現地取材に行った際、宿泊したホテルで「かつて感じたことのない胸苦しさを急に感じ」て、のちにそれが狭心症とわかり手術することになったという話なのです。

「いまはすっかり元気になったが、いまでも時折、別海のホテルで体験した恐怖の一夜を思い出して生きた心地がしなくなることがある。そして、あれは木嶋佳苗被告の呪いではなかったかと思うと、いまさらながらに背筋が寒くなる」と。

勝手に背筋が寒くなってろ、と言いたくなりますが、これがあの『東電OL殺人事件』「東電OL症候群」の著者の10数年後の姿かと思うと、東電OL殺人事件に少なからぬ関心を抱いてきた人間のひとりとして、一抹のさみしさを覚えないわけにはいきません。

 別海高校の同級生の中には、木嶋には牛を扱っている酪農家のドロ臭い子なんか相手にできないわ、といった”上から目線”を感じたという者もいた。
 この話を聞いたとき、木嶋は往年のウエスタンTV劇「ローハイド」の舞台になりそうな酪農地帯で、いうなれば「デブでブスなスカーレット・オハラ」ではなかったかという妄想にかられた。


こんな2ちゃんねるレベルの低俗な悪口をくり返えしても、この事件の本質にせまることができないのは自明でしょう。それくらいおっさんたちには理解できない事件だったのかもしれません。でも、木嶋佳苗被告にいいように手玉にとられ金をむしり取られたのは、ほかならぬ佐野眞一氏のようなおっさんたちなのです。木嶋佳苗被告は、女はこうあるべきという男のなかの固定観念を逆手にとって男を騙してきたのでした。そして、そこに、多くの女性たちがこの事件に関心を寄せる理由があるのだと思います。

北原氏は、裁判の傍聴にきていた「30代の主婦」のつぎのようなことばを紹介していました。

「男性の結婚観って、古いですよね。介護とか、料理とか、尽くすとか、そういう言葉に易々とひっかかってしまう。自分の世話をしてくれる女性を求めているだけって気がするんです。佳苗はそういう男性の勘違いを、利用したんだと思う」


木嶋佳苗被告は、松田聖子の歌も好きだけど、彼女が女性週刊誌で悪口を言われているところも好きだ、と高校1年のときの文章に書いているそうです。また、同じ文章で、『松田聖子論』を書いたフェミニストの「小倉千加子も好きです」と書いているのだとか。北海道の田舎の高校生が、既に小倉千加子を知っていたということには、北原みのり氏ならずとも驚きます。

たしかに、木嶋佳苗被告が書いたブログやメールの文章を読むと、文章が簡潔でうまいなと思います。文章を読む限り、知的でスマートな女性像が浮かんできます。「援助」を口実にした金銭の要求はかなり強引ですが、その強引さも決していやらしさはなく、非常に論理的で、ある意味説得力があります。実際に会うと、口数は少なかったそうですが、文章のうまさが男を騙す上で貢献していたのは間違いなさそうです。ネットの時代では、文章力が大きくものをいうと言われますが、はからずも彼女はそれを犯罪を通して証明した気がします。

自分が「特別な女」であるという意識、そんな「私」にこだわる心理。多くの女性たちは、そんなやっかいな「私」を抱えて生きているのかもしれません。しかし、一方で、彼女たちは日常的に男が抱く女性像を演じることを強いられるのです。だからこそ、「私は私である」という自己確認が切実なものになるのでしょう。

北原みのり氏は、この裁判に対する問題意識をつぎのように書いていました。

 女はとっくに白馬の王子なんて、この国にいないことを知っているというのに、それなのに、男は婚活サイトというシビアな市場を利用しながらも、呑気にカボチャの馬車に乗った姫が、自分の目の前に現れるとでも思っているの? お姫様にあげるガラスの靴すら持ってないというのに。
 婚活サイトを見ながら、男たちの声を聞きながら、そして今日も優雅に縄をつけられ悠然と退廷する佳苗を見ながら思う。佳苗の結婚観を知りたい。それは「フツーの女」たちと、どのくらい違っているものなのだろう。「毒婦」と呼ばれる女と、私たちは、どのくらい離れているのだろう。


 絶対に潤うことのない欲望を抱え、キリキリした思いで、だけど身の丈と理想が追いつかないちぐはぐな佳苗。欲望を満たす佳苗が取った「援助交際」は、ある世代にとって、この社会との”付き合い方”でもあった。だから女たちは、佳苗に、自分に、問うのだ。佳苗の罪は何だろう。私と佳苗の違いは何だろう。


男たちの古い女性観と、それに基づく欲望を逆手にとった被告に、男性に媚びる姿勢は微塵もありません。それは公判でも、古い女性観をふりかざして被告を断罪する検事をあざ笑う「ふてぶてしさ」に表れています。

被告にはお金を介在させない「本命」の”彼”もいたようですが、その”彼”にしても被告から聞かされていた名前は本名ではなかったそうで、警察からそのことを知らされたとき、あまりのショックに膝から崩れ落ちたのだとか。被告の男性をみる目は非常にシビアですが、結婚や恋愛に対しても、世間とは違った目でみていたような気がします。それがどこからきているのか、私には興味があります。

女性にとって、本人が思っている以上に母親の存在は大きいように思います。彼女たちの結婚観や恋愛観や男性観には、常にどこかに母親の影がつきまとっているような気がしてなりません。一方で、よく言われるように、「あなたの味方よ」「いつも応援しているよ」と言いながら、娘の足を引っぱっているのも母親なのです。まして木嶋佳苗被告のように、子どもの頃から母親との葛藤を抱えていた女性には、もっと複雑な影が射していただろうことは想像に難くありません。

上野千鶴子が言う、所詮は母親のようになるしかないという「不機嫌な娘」にとって、母親の呪縛から逃れるには、こういう方法しかなかったんだろうか、と思ったりもします。いづれにしても、東電OLと同じように、多くの女性が木嶋佳苗被告に自分の姿を重ねたのは事実なのでした。しかし、ネットや佐野氏の反応でもわかるように、相変わらず男たちはそういった事実に目を向けようともしないのです。と言うか、そもそも理解すらできないのでしょう。

>> ふしだらな女 木嶋佳苗
>> 木嶋佳苗被告と東電OLの影
>> 松田聖子という存在
2012.05.04 Fri l 本・文芸 l top ▲