
最近、徳永英明の「VOCALIST VINTAGE」というカバーアルバムをダウンロードして聴いています。
カバーされているのは、「夢は夜ひらく」「人形の家」「再会」「ブルーライトヨコハマ」など、いわゆる昭和歌謡の14曲です。もちろん、私とてすべてを同時代的に聴いていたわけではありません。
しかし、いつの間にかこれらの歌にしんみり聴き入っている自分がいます。昭和歌謡には今の歌にはないあふれるような叙情があります。歌は世につれではないですが、それは私達の若い頃の心情とどこか重なるものがあるように思うのです。
私は中学を卒業すると親元を離れて、いわゆる街の高校に入ったのですが、そのときから深夜放送を聴くようになりました。また、まわりの影響で洋楽にも興味をもちました。
しかし、ストーンズがいいとかザ・フーがいいとかグランドファンクがいいとか言いながら、その一方で、子どもの頃ラジオから流れていた、聞き覚えのある歌謡曲に耳を傾けている自分がいました。また、入院中に枕元のイヤホーンから流れてきた歌には、今でも当時の思い出がオーバーラップしてきます。それはちょっと垣間見た大人の世界で、斎藤綾子の『結核病棟物語』ではないですが、恋もあったけど死もありました。
昭和歌謡には、「しんみり」ということばが似合います。思い出は遠くなるばかりですが、しんみりする気持ちはいつまでも残っているのです。
中沢新一が「エコレゾウェブ」での小林武史との対談(「いま、僕らが探さなければならないこと」)で、「音楽には『みぞおちの辺りが疼いてくる』というようなものと求めている」という細野晴臣のことばを紹介していましたが、「しんみり」というのはそういうことなのでしょう。
>> 『結核病棟物語』