
斎藤環著『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店)を読みました。タイトルがあまりに凝りすぎてミスマッチなのですが、副題に「ヤンキーと精神分析」と付いているように、要するにヤンキー文化(「ヤンキー的リアリズム」)を著者の専門である精神分析の視点から論じた本です。
著者が言う「日本の芸能界がいかにヤンキー的な美意識に浸潤されているか」「世間とヤンキー文化との親和性」というような問題意識からヤンキー文化を考えると、ヤンキーは強し(ヤンキーあなどれず)という思いをあらたにせざるを得ません。
折しも今日のYahooトピックスに、「avexがヤンキーアイドル募集」という記事が出ていましたが、さまざまな分野で今やヤンキー文化(ヤンキーテイスト)は一大市場と化しているのです。そして、最近の橋下現象に見られるように、ヤンキーは政治の世界でも猛威をふるうまでになったのでした。
個人的には、蒔絵シールがヤンキーのアイテムだったことを初めて知り、シールを扱う人間として不勉強を恥じた次第ですが、それはともかく、このように、ヤンキー(文化)はますます進化し拡散しているのです。
不良文化を出自として、当初はごく狭いトライブ内だけで共有されていた文化が、当事者性を超えた一つの美学として一般化されることで、むしろ文化はいったん「蒸留」されることになるのだ。それはサブカルチャー内に、あたらな棲み分けの構図をもたらす(略)。
そんなメカニズムによって、ヤンキー文化に隣接して生まれたのがギャル文化です。著者は、「ヤンキー → チーマー → ギャル」という系譜をあげていて、ヤンキーとギャルの接点になる美学が「気合」と「アゲ」だと書いていました。
先日、たまたま都築響一氏の『夜露死苦 現代詩』(ちくま文庫)を読んだのですが、そこで紹介されているその手の「詩」には、たしかにファンシー好き・光もの好きなどの趣味嗜好だけでなく、ことばの上でも両者の共通点が見てとれます(というか、正直言って、私にはほとんど同じに見えます)。それは、斎藤氏の分析に従えば、「メタレベルの欠如」「情緒志向」「反知性主義」「家族主義」ということになるのです。
ただ、このような学者特有の紋切型の分析では、いまひとつピンとこないのも事実です。「メタレベルの欠如」なんて、要するにシャレもわからない単純バカということじゃないかと思いますが、そう言ってしまったのでは身も蓋もないのでしょう。
そして、著者は、「(日本人が)キャラ性をきわめていくと必然的にヤンキー化する」という仮説を立てるのでした。その仮説に従えば、芸能人にヤンキーが多いというのもうなずけようというものです。工藤静香とキムタクがいかにお似合いの夫婦であるか、二人の間にある「相通じるもの」の正体も、おのずと理解できるのです。
また、この本では、ヤンキー文化の本質をさぐる上で、ふたつのキーワードをあげていました。それは、「女性性」と「換喩性」です。
「女性性」については、『文藝』(2012年秋号)での著者と赤坂真理との対談「母殺しの不可能性と天皇」でも話題になっていましたが、ヤンキーは、原理原則よりもまず行動(「気合」)、そしてなにより関係性を重んじる行動様式に特徴があるのだそうです。彼らのドメスティック(自国的)&ネイバーフッド(地元)志向は、そこから生まれているという指摘も納得がいきます。
ヤンキーの成功者を見ると、”父親殺し”が行われず、”偉大な”母親の精神的な庇護と母性的同一化のなかで成長しているのが特徴だそうですが、著者は、「世間」とヤンキー文化との高い親和性も、こういった母性によって媒介されているのではないかと書いていました。
”母の文化”の要素が強い日本の社会では、ヤンキー文化を広く受け入れる素地がもともとあるのかもしれません。この本では、元「ヤンキー先生」の義家弘介参院議員を例にあげていましたが、政治家でも教育者でも宗教家でも芸能人でもスポーツ選手でも、ちょっとやんちゃをしていた方がいいキャラになり信用されるのです。そして、そういった美学は須佐之男命(スサノオノミコト)にまで行き着くというのが斎藤説です。
これは、もうひとつのキーワードの「換喩性」ということにも関わってきます。著者はこう書きます。
ヤンキー文化には、「本質」や「起源」と呼べるものがない。その本質なるものがありうるとしても、それは中心ではなく周縁に、内容ではなく形式に、深層ではなく表層にしか宿り得ないからだ。
本質的な比喩表現の「隠喩」ではなく、隣接的な比喩表現の「換喩」こそがヤンキー的表現の特徴だと言うのです。そして、そのエートスは日本文化の「粋」や天皇制をささえる構造にもつながっているのだと。
丸山眞男は、『古事記』のなかに、「つぎつぎになりゆくいきおい」なる歴史的オプティズムが存在することを指摘したそうですが、そういった「日本文化の古層」とヤンキー文化のつながりも、非常に興味のある話でした。
要するに「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」というような話だ。これが日本文化のいちばん深い部分でずっと受け継がれてきているということ。つまり丸山というわが国でも屈指の政治思想家が、まだヤンキーという言葉もなかった戦後間もない時期に、日本文化とヤンキー文化の深い連関をみぬいていた、ということになる。
ヤンキースタイルの「模倣とパロディによる逸脱が『つぎつぎ』と新たな『様式』をもたらす、という進化の形式」は、日本文化の特徴でもあります。その代表例が、伊勢神宮の式年遷宮(式年造営)です。私も以前「コピー文化」という記事で指摘しましたが、三島由紀夫が『文化防衛論』で言っているように、「二十年毎の式年造営は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになる」、それが日本文化なのです。
我らが大分県出身の建築家・磯崎新も、『始原もどき ジャパンネスキゼーション』(鹿島出版会)という本で、「伊勢神宮における本質の不在」について自論を述べているそうです。著者は、磯崎の論をつぎのように紹介していました。
磯崎によれば、神社の建物というのは要するに囲いがあってヒモロギというものがあればそれで十分なのであって、そこには「ご本尊」のような本質は一切不要であるということになる。何もない空虚であるにもかかわらず、周りにいろいろと立派な建物があるから、何かありそうな感じがするという、かなり身も蓋もない話になっている。
まさにロラン・バルトが喝破したように、日本(東京)の中心にあるのは<空虚>なのです。日本文化で重要なのは、内容より形式、中心より周縁、本質より様式なのです。それがヤンキー文化に凝縮して存在しているというわけです。
さらに、速水健朗が『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)で指摘している、「麺屋武蔵」にはじまるラーメン界の右傾化(作務衣の着用や相田みつおもどきの能書き)にも、著者が言うように、多分にヤンキーテイストが見てとれますが、ヤンキー文化はそうやってあらたな様式を身にまといつつ拡散しているということでしょう。
しかしひとたび視点を変えれば、「生存戦略」としてこれほど強力な文化もない。何しろ彼らは、正統な価値観や根拠なしに、自らに気合を入れ、テンションをアゲてことにあたることができる。それどころか、彼らは場当たり的に根拠や伝統を捏造し、そのフェイクな物語性に身を委ねつつ、行動を起こすことすら可能なのだ。宗教的な教義によらずにこれほど人を動員できる文化は、おそらくほかに例がない。
ヤンキー文化おそるべしです。
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