今年もまた村上春樹がノーベル文学賞を逃しましたが、受賞したあとのフィーバー(古い?)を考えると憂鬱でならなかったので、個人的にはホッとしました。

選考基準に「文学性」というのがあるそうですが(文学賞なのだから当然でしょう)、その「文学性」が問われて受賞しなかったのだとしたら、ノーベル賞は一定の見識を示したと言えます。本命視されていた村上春樹が受賞を逃して中国の莫言が受賞したことに対して、「政治的」にどうだとかいう話が出ていますが、そんなことはどうでもいい話です。文学に政治なんてまったく関係ない。問われるべきはその「文学性」だけです。

西宮市の母校の小学校では、恩師や同級生たちがテレビの前で受賞の知らせを待っている様子がニュースに出ていましたが、私はそれをみて「オリンピックかっ!」と突っ込みを入れたくなりました。また、街頭インタビューで、「来年こそは取ってもらいたいですね」なんてサラリーマンが答えているのをみるにつけ、「レコード大賞かっ!」と思いました。

こういった騒ぎは、わが身がかわいい作家たちは誰も言わないけど、新潮社や文藝春秋のような出版社がこの国の文学のスポンサーでもあるという、日本の(商業)文学のいかがわしくもかなしい構造をよく表しているように思います。

書店の悪乗りも同様ですが、これじゃ文学が衰退するのは当然です。最近、書店に行くと、若い女性作家の作品で、ファッション雑誌の見出しとみまごうような惹句とともに、作者の写真が表紙の帯に印刷されている本がやたら目につきますが、(斎藤美奈子の『文壇アイドル論』ではないですが)なんだかアイドルを作ろうという出版社の魂胆がみえみえなのです。実はかく言う私も、表紙のかわいい写真にひかれて、「21歳現役女子大生」片瀬カヲルの『泡をたたき割る人魚は』(講談社)をジャケ買いしたのですが、寓話にもならない寓話もどきの話に耐えられず、途中で放りだしてしまいました。村上春樹もこのような”アイドル戦略”のなかにあるのでしょう。

文学の「社会的役割」は終わったという話をよく聞きますが、でも、そもそも文学に「社会的役割」なんてあるんだろうかと思います。むしろ「社会的役割」などというものとは真逆にあるのが、文学ではないかと思います。

強いて言うならば、私たちの胸奥にあるまだことば(意味)にならない事柄や思いを、物語に託して表現するのが文学ではないかと思います。だから、ときに人間存在の根底にあるもの、生きることの根底にあるものにせまることができるのでしょう。ただ、今の作家たちはそんな「役割」をみずから放棄したとしか思えません。放棄したにもかかわらず、文学という幻想(文学という擬制)にはよりかかったままなのです。

なにかを語っているようでなにも語ってない。村上春樹の小説は、空疎なことばで彩られた箱庭のような世界のなかに、カマトトな主人公がいるだけです。だから、中国でも韓国でもロシアでもアメリカでもヨーロッパでも受け入れられるのでしょう。しかも、受け入れられているのは、日本語の原本ではないのです。翻訳された作品にすぎないのです。それにどれほどの意味があるのだと思います。

先日、昔は結核療養所だったという都下のとある病院に行きました。林のなかの古びた病院で、誰にも看取られずにひっそりと息をひきとっていく老人の姿は、やはりショックでした。そんな老人の人生を考えるとき、『ノルウェイの森』だって『海辺のカフカ』だって『1Q84』だってどうでもいいと思いました。目の前にある現実に比べれば、村上春樹の小説は、(同じ「死」がテーマでも)まるで別世界のおとぎ話のように思えます。でも、私たちにとって、ひとりさみしく死んでいく老人こそ親しき隣人なのです。

神宮球場でヤクルト戦をみているとき、ふと小説を書こうと思ったなんて、そんな作り物じみたエピソードをまるで御託宣のようにありがたがる感性は、本来文学とは無縁のものでしょう。ハルキストとは、そんなミーハーの謂いで、彼らが「すごい」「すごい」と言っているだけです。

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2012.10.12 Fri l 本・文芸 l top ▲