若松孝二監督の死去に対して、宮台真司がブログにつぎのような追悼文をアップしていました。

この文章を書きながらも、悲しくて涙がとまりません。監督がいなければ、本当に今の僕はいないのです。監督がいなければ松田政男さんの本も読まなかったし、松田さんの本を読まなかったら廣松渉さんの本も読まなかったし、そうしたら社会学に学問的な興味を抱くこともなく、社会学者になんてなっていなかった。
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高校生のとき、泊り込みで勉強すると行ってでかけた同級生の家で、洋服箪笥からお父さんのブレザーをこっそり借りて、別府の裏通りにある映画館のオールナイトで観た「天使の恍惚」が、私にとって初めての監督の映画でした。そして、受験に失敗。予備校に行くために上京して、アテネフランセの映画講座で、当時映画ファンの間で「赤P」と呼ばれていた「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」を観ました。「赤P」は、全共闘以後の世代の人間にとって、文字通り上の世代を仰ぎ見るような政治的プロパガンダの映画でしたが、ピンク映画の若松孝二監督と「銀河系」の足立正生監督がこんな映画を作るなんて、なんだか「映画なんてどうでもいい」と言ってるようで、すごいショックでした。それからほどなく足立正生監督はメガホンを置いて、パレスチナに飛び立ったのでした。

宮城県の農業高校を中退して、親の金700円だかを盗んで上京。以後、職を転々としたその経歴は、永山則夫を彷彿とさせるものがありますが、当時はそんな若者はめずらしくなかったのでしょう。宮台真司がブログに書いているように、若者たちが不幸なのは経済的に貧しいからではないのです。「ここではないどこか」がなくなったからです。「赤P」もある意味では「ここではないどこか」の映画だったと言えなくもないし、足立正生監督がパレスチナに行ったのも、「ここではないどこか」を求めたのかもしれません。しかし、結局、「ここではないどこか」はどこにもなかったのです。

谷川雁の『工作者宣言』になぞらえば、若松孝二監督の映画は、知識人に対して鋭い大衆のことばを突きつける、そんな側面もあったように思います。だから、戦後民主主義とそれを支える”進歩的知識人”の欺瞞を告発していた若者たちから支持されたのでしょう。それにしても、あの時代の若者たちはなんとナイーブだったんだろうと思います。若松孝二監督の映画に出てくる若者たちもみんなナイーブでした。

あとづけでものを言うのは簡単です。当時の若者たちは、今の若者と違って、切実に「ここではないどこか」を希求していたし、そういった自分の人生や時代に対するナイーブな感性をもっていたのは間違いありません。そして、若松映画の性と暴力が、そんな感性や時代の空気感を共有していたのも間違いないのです。

「常に弱いものの味方だった」「弱いものの視点から描いていた」などというもの言いは、いかにも「戦後民主主義的」な解釈で、最近の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」や「キャタピラー」は別にして、少なくとも初期のピンク映画に関しては、もっとも遠いところにある解釈だと言わねばなりません。若松映画は、そんな”戦後的価値”と結託したヘタレな映画なんかではなかったのです。
2012.10.19 Fri l 訃報・死 l top ▲