
午後、渋谷に行こうと東横線の電車に乗ったものの、途中の学芸大学駅に停車したままいっこうに出発する気配がありません。イヤホーンを外して社内放送に耳を傾けると、手前の田園調布駅で「人身事故」があったため、上下線が全面運休していて、振替運転をはじめたというのです。聞けば、学芸大学駅から目黒通りか駒沢通りに出て、バスに乗り換えなければならないのだそうです。
どうすべきか、バスに乗り換えるべきか、迷いながらしばらく電車のなかで待機していると、あと1時間くらいで再開の見通しだとの放送がありました。それで、いったん駅を出て近辺で時間を潰すことにしました。
ホームから改札口におりると、改札口のまわりは人であふれていました。なんだか3.11のときの光景を思い出しました。あのときもちょうどこんな感じでした。
学芸大学の駅をおりたのは初めてでしたが、渋谷駅まで10分たらずという交通の便のよさもさることながら、駅周辺は商店街が充実していて、住宅地として人気が高いのも頷けました。私は駅近くのビルの2階にあるカフェに入りましたが、思ったより先客も多くなく、時間を潰すにはもってこいでした。
窓から駅の混雑ぶりをみながら、また「人身事故」かと思いました。きょうは横須賀線でも「人身事故」があったようですが、毎日毎日「人身事故」のニュースばかりです。不謹慎な言い方かもしれませんが、まるで水泳大会のようにつぎつぎと飛び込んでいる感じです。それくらい死にたい人間が多いのでしょうか。
警察庁の統計によれば、平成23年の自殺者数は30,651人で、平成10年以降14年連続で年間3万人を超えたそうです。ということは、この14年間に限っても、40万人以上の人間が自殺で亡くなっている計算になります。
さらに、(今まで何度も同じことを書きましたが)自殺者の背後にはその10倍の自殺未遂者がいると言われていますので、自殺未遂者に至っては、どう少なく見積もっても百万人以上はいることになります。私たちの身近にも自殺者や自殺未遂者はいるはずなのです。ただそれが表に出ないだけです。
職場でも学校でも地域でも、そして家族間でも、人間関係がますますギスギスしているのは、私たち自身が日々実感することです。そのギスギスした余裕のない人間関係は、そしてこの生きづらさは、どこからきているのか。それはこの社会に生きる私たちにとって切実な問題のはずです。しかし、世の中に敏感なはずの若者たちにしても、ネットに代表されるように、すべてが他人事のような見世物を与えられて、差別と排除の力学で仮構された日常をただ”自演乙”するだけなのです。
社会学者の大澤真幸氏は、『ネットと愛国』の書評で、ネトウヨは、国を愛するというより「むしろ、国に愛されたいのではないか」と書いていましたが、それもまた倒錯した愛と言うべきかもしれません。
そして、前の記事のつづきになりますが、”私小説の時代”がいかに牧歌的であったかということを今さらながらに思わないわけにはいかないのでした。