
朝、原宿に行く用事があったので、そのまま原宿駅から渋谷まで歩きました。
駅を出てすぐの表参道の舗道に、長い行列ができていました。よくみると、大半は男性で、しかも、こう言っては失礼ですが、早朝のパチンコ屋に並んでいるようなタイプの人たちが目につきます。
場所柄、初売り(バーゲン)に並んでいるようにもみえるのですが、まさかラフォーレの初売りの行列が原宿駅まで伸びているということはないでしょうし、なんのバーゲンなんだろうと思いました。
もっとも最近は、ネットで売る商品をバーゲンなどで仕入れる人たちもいるみたいなので、行列のなかに場違いな人たちが混ざっているのも不思議ではないのかもしれません。
私の知り合いで、オークションで落札した商品を再びオークションに出品して利ざやを稼いでいる人間がいますが、本人の話ではヘタなアルバイトより稼げるのだそうです。まったくネットというのは、「虚実入り混じった」変なところです。
表参道は、ほとんどの店はまだ開店前で、歩いている人もまばらでした。あらためて舗道沿いの店をみると、大半はファッション関連の店で、それも大小さまざまなブランドの直営店ばかりです。
「モードの時代は終わった」という声もありますが、原宿をみる限り、まだモードは人々の心をとらえつづけているかのようです。人々がモードにとらわれるのにはいろんな解釈があると思いますが、なによりそこに資本主義の”原理”が凝縮されているのは間違いないでしょう。
先述した『資本主義の「終わりの始まり」』によれば、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、「資本主義とは永遠の経済成長という非合理な宿命を強迫のように背負わされた宗教だ。」と言ったそうですが、モードにとらわれた人々はまるでそんな宗教の信者のようです。
スローフード、スローライフなどと言っても、それが観念的なスローガンにとどまっている限り、「脱原発」と同じような”運命”をたどるのは目にみえている気がします。『資本主義の「終わりの始まり」』の著者・藤原章生氏は、いやそうではない、「大事なのは、二十万人もの人々が少なくとも一度は官邸前に集まったという事実だ。もし、仮にもっとひどい政策がなされたとき、おそらくさらに多くの人々が一カ所に集まる反政府運動のポテンシャル(可能性、潜在力」)が示されたことだ。」と言うのですが、私にはそれはやはり、おためごかしだとしか思えません。
反原発の「官邸デモ」は、野田首相(当時)との会見に象徴されるように、結局は60年代後半に否定されたはずの古い政治のことばをよみがえらせただけではないのか。そういう方向に収れんさせることによって運動のエネルギーを奪っていったのではないか。非常に言いにくいのですが、そのようにしかみえません。
考えてみれば、永遠の経済成長、つまり永遠の拡大再生産なんて、私たちの商売と同じで、「そうなればいい」「そうならなければ困る」という希望的観測にすぎないのです。案外、日本は資本主義というモードの最先端を走っていて、私たちは、「永遠」がもう「永遠」ではなくなりつつある資本主義の、その波頭に立っているのかもしれません。原宿の光景だって、マッチ売りの少女がみるうたかたの夢にすぎないのかもしれないのです。
しかし、私たちにはつぎの準備がなにもないのです。GDPがじわじわと減りつづけ、借金の比率が高まっていく。そうやって徐々に空気が薄くなっていくと、最初に影響を受けるのは体力のない人たちです。そのとき、「成長が続くという幻想が消えた」ことを知る最初の世代であり、労働人口の最高齢にいるはずの40代はどう反応するのか。日本以上に「労働の流動化」、つまり非正規雇用が進むイタリアの例をとりながら、藤原章生氏は、つぎのように問うのでした。
人間同士の関係を重視し、自身のエゴをうまく抑え、貧者に対して最低でも生きていける程度の富を分け与え、少ない仕事を共有するような形へと落ち着くのか。
既に露骨な「ナマポ」叩きがはじまっている日本の現実を考えるとき、とてもじゃないけど、これは夢物語のようにしか思えません。なにより、「つぎの準備」がこのような(まるで宗教のお題目のような)願望によってしか表現できないことに愕然とせざるをえないのです。
渋谷に着いてしばらく時間を潰したあと、開店したばかりのGAPで、予備がないと不安症候群の私は、カーディガン2色をそれぞれ2枚づつ買って帰りました。

