明治神宮01


朝、明治神宮に”初詣”に行ってきました。時間がはやいということもあったのでしょうが、参拝客は思ったより少なくて、普段の平日とほとんど変わりませんでした。

心境は”初詣”というより「苦しいときの神頼み」といった感じですが、しかし、凡夫はどこに行っても凡夫で、浮世の垢を拭うことはできないのでした。お賽銭箱に100円玉を入れたつもりがうっかりして500円玉を入れてしまったのです。お賽銭を投げ入れた格好のまま一瞬止まり、思わず「あっ!」と声が出てしまいました。

お参りを終えて参道を引き返していたとき、中年のサラリーマン風の男性が、携帯電話でなにやら話しながら私の前を歩いていました。その声が聞くともなしに聞こえてきました。

「申し訳ございません。なんとかしますから」
「はい、私のほうのミスです。申し訳ございません」

どうやらクレームの電話のようです。でも、その男性にしても、つい先ほどお参りしたばかりなのです。「今年も平穏無事にすごせますように」と祈願したのかもしれません。神様はなんと理不尽なんだろうと思いました。

もっとも、キリスト教やイスラム教のような一神教であれば、神は唯一絶対的な存在なので、神から背を向けられたら絶望するしかないのですが、この日本は八百万の神の国です。だから、捨てる神もあれば拾う神もあるのです。

携帯電話を耳に当てたままペコペコ頭を下げている男性をみながら、私は、「拾う神」を求めてつぎの神社を参拝したほうがいいんじゃないか、なんて不謹慎なことを考えました。

今や初詣のテレビCMが流れる時代ですし、またアニメの”聖地”などと言ってオタクに秋波を送る神社まで出てくる時代です。恋愛や病気や商売繁盛などご利益を特化して他と差別化をはかる神社もあります。文字通り、神様の世界も資本主義の洗礼を受けているのです。

「神はまず悲哀の姿して我らに来たる」と綱島梁川が言うときの”神”と、初詣のときに拝殿の奥に鎮座まします”神”は、なんだかまったく別のもののようにさえ思えてきます。たしかに、日本中にある神社は、その土地の”偉人”、つまり「大きな物語」を担った”偉人”を顕彰するという側面もあったのでしょう。

そう考えると、私たちが手を合わせるべきは、拝殿の奥に鎮座まします”神”より、まず自分の謙虚な心のなかにある”神”のほうではないか。仏教で言う「念仏申さんと思ひたつこころ」こそが大事ではないか。それが「八百万の神」の基底にある考え方ではないか、と困ったときだけ神頼みをする不信心者は思ったのでした。


明治神宮02

明治神宮03
2013.01.17 Thu l 東京 l top ▲