物語消費論改


先日、産経新聞に「結婚も自立も難しく…社会問題化する親同居未婚者」という「論説委員兼政治部編集委員」河合雅司氏の署名記事が出ていました。

記事によれば、親と同居する「35~44歳の未婚者は、2010年には男性184万人、女性111万人の計295万人」に上り、「同世代人口に占める割合は男性19・9%、女性12・2%」だそうです。その背景には、結婚したくても結婚できない経済的な事情があるのだとか。

国立社会保障・人口問題研究所の第14回出生動向基本調査のデータによれば、「20~34歳の独身者男性の3割弱が年収200万円未満」だそうで、それでは結婚なんて及びもつかないのはわからないでもありません。ただ、私のような地方出身者からみれば、一方でやはり「甘え」ということばを思い浮かべざるをえないのです。

いくら収入が低くても親のスネをかじれない地方出身者は、正規雇用が望めなければアルバイトをかけもちして生活費を工面するのが普通です。また、たとえ年収200万円であっても、安アパートに住んで共稼ぎを前提に、結婚する人間は結婚しています。

私のまわりもみても、親と同居している人間ほど「気楽な」フリーター生活から抜け出せずにいるケースが多いのですが、しかし、この記事に書いているように、「彼らを養っている親が高齢化して亡くなった途端に、彼らの生活基盤は崩れる」のです。やがて彼らが「気楽」ではない状況に立ち至ることは目にみえています。

また、これは予断でも偏見でもなく、彼らには程度の差こそあれ、オタク、あるいはオタクっぽい志向の持ち主が多いのも事実です。一方でオタクたちが、ネットを通して最近とみにネトウヨ化している現実があります。

折しも私は、大塚英志著『物語消費論改』(アスキー新書)を読んだばかりなのですが、この本では、彼らオタクが「日本」や「愛国」という、大塚氏が言うところの「大きな物語」に動員されていくメカニズムが、氏独特の語り口で解析されていました。ちなみに、この『物語消費論改』は、著者のことばを引用すれば、2001年刊の『物語消費論』(角川文庫)を「web以降』の文脈の中で検証し、清算するために」あらためて書かれた本だそうです。

まず、現在の「web以降」の状況について、著者はつぎのように書いていました。

webが新たにもたらしたものは、第四の権力としてのメディアを含む既存の権力が「ユーザー」に支配される、という独裁者不在のファシズムだ。しかも、「ユーザ-」たちは自らを「権力」化するために「天皇」やプチ独裁者を自身のアバターとして担ぎ上げる。しかし考えてみれば、おそらくファシズムとは本質的にはこのような独裁者を一種の偽王として祀り上げるシステムであり、従って、その枠の外から見ればヒトラーにせよ金正日にせよ、そして幾年か後に振り返れば、橋下徹も含め、あのような陳腐で滑稽な人間に人々は何故熱狂したのかと不思議に思うはずだ。このように「受け手」の欲望が物語消費論的に肥大し、権力化し、権力を「操作」していくのが「愚民」社会であるということになる。


一つの素材が「情報」として(それが「事件」であっても「フィクション」であっても)、メディア間を横断することによって案外と容易に虚実の境界を越えることが可能である。情報(言説と映像)は「組み合わせ」によっていくらでも事実を「虚構化」し、「現実」を装うこともできる。webはそのような操作性を万人に開いてしまった、といえる。


著者も「錯誤」だと書いていましたが、歴史との回路を切断された虚構の現実(セカイ)がどうしてこんなにいともたやすく捏造され、それがあたかも「本当の真実」であるかの如く跋扈するのか。「人生がうまくいかない」人間たちが、負の感情を元手に「夜郎自大な人間」に変身していく「物語消費」のメカニズムも含めて、そこにウェブが大きな役割をはたしているのは言うまでもありません。

ただ、このメカニズムの仕組みは、「web以前」の80~90年代に既に用意されていたと著者は言います。そこにあるのは、宮崎勤とオウム真理教の存在です。私は、それを読んだとき、まさに我が意を得たりと思いました。

オタクたちは、宮崎勤やオウム真理教(麻原彰晃)の呪縛から未だ自由ではない、と私も常々思っていました。「web以降」も”オタクの「仮想」の時代”は連綿とつづいているのだと。上記の記事で言えば、親がかりのニートやフリーターがオタクになったのではないのです。オタクが親がかりのニートやフリーターになったにすぎないのです。

宮崎勤の裁判に関わってきた著者は、宮崎勤の特徴は「私」の不在だと言います。宮崎勤の「私」には、「私が私である」という個別具体性が欠けているのだそうです。「私」という「外殻」がないのだと。他人によって自分がどう語られるか、そのなかにしか「私」を見出せない。それは、ネットなどにみられるように、他人の評価の集積で「私」が定義される今の状況と通底していると言います。そういった「私」は、かつて鈴木謙介氏が『ウェブ社会の思想』(NHKブックス)で、<遍在する私>として指摘していたのと同じでしょう。にもかかわらず(いや、当然と言うべきか)、他人に承認されたいという欲求だけは強くあるのです。

 結局、宮崎勤という人間を十年間観察してわかったことは、一見、ポストモダン的に見える「私」をめぐるリストや「誰かの語り」の中で自分を立ち上げようとするふるまいは、この国の近代が回避してきた「社会的な私」に対する回避の手段にすぎない、ということだ。そこでは「私」を立ち上げる手間暇や責任は忌避され、しかし他人に承認されたいという欲求だけは行使される。(原文は、引用文すべてに傍点あり)


一方、麻原彰晃は、英雄史観と陰謀史観を梃子に「大きな物語」を「陳腐に、しかし低次元でわかり易く提供して見せた」のでした。それは、「例えば『国を愛する』と言った瞬間、そこに『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」ような安直なものでしかありませんでした。このような安直さによって(であるからこそ)、宮崎勤のようなオタクの、ただ他人に承認されたいだけのつたない「私」は、「ジャンク」の寄せ集めのような「大きな物語」にいともたやすく取り込まれていったのでした。そして、そのメカニズムは、昨今のナショナリズムの台頭にも通底しており、決して「終わった」話ではないのです。

ブログやTwitterやFacebookで日々垂れ流される「私」語りとしての「内面」。でも、その「内面」は所詮文体によってつくられたものにすぎないと著者は言います。個別具体性を欠き、自他の境界を持たない「内面」は、ただ増殖し浮遊するだけです。それでは、歴史との回路を切断された虚構の現実(「大きな物語」)に容易に回収され、動員の思想に組み込まれていくのは自明のように思います。

英雄史観でも陰謀史観でもない歴史はひどく退屈で、ただの日常の集積である。その日常を経験し身体化することが耐えがたく、彼らはオウムという虚構の歴史的身体を求めたのであろう。けれど、あまりにつまらない結論かもしれないが、人が歴史に至る手だては、退屈な日常を経験し身体化し、言語化していくしかないではないか。


前にも書きましたが、なにより大事なのは、この人生や生活を誠実にしっかりと生きて、日常のなかから個別具体的な「私」のことばを獲得することです。退屈な日常のなかにこそホンモノがあることを知ることです。そうすれば、おのずと歴史的な回路も生まれるはずです。「いい年していつまでもフリーターをやっているんだ」「いつまで親に甘えているんだ」というもの言いは、案外バカにできないのです。

>> 宇多田ヒカル賛
2013.01.19 Sat l 本・文芸 l top ▲