
「abさんご」に再び挑戦しましたが、やっぱり読めませんでした。芥川賞を受賞したのですから、少なくとも「文学的にすぐれた」作品なのでしょう。だとしたら、もう私は小説を読む資格はないのかもしれません。
これは単行本の帯にも引用されていましたが、蓮実重彦氏は、早稲田文学新人賞の選評で、つぎのように書いていました。
誰もが親しんでいる書き方とはいくぶん異なっているというだけの理由でこれを読まずにすごせば、人は生きていることの意味の大半を見失しかねない。
なんだか「映画評論家」が新作映画のポスターの宣伝文に引用されるのを想定して書いたような文章ですが、それにしてもすごい文章です。さしずめ私などは、「生きていることの意味の大半を見失しかねない」愚かな人間ということになるのでしょう。そもそも文学に対して、未だにこんなこけおどしが通用すると思っている感覚からしてすごいなと思います。
「abさんご」は、芥川賞の発表から1週間も経たずに文藝春秋から単行本化されましたが、「abさんご」を買った人たちで、この小説を最後まで読むことができる人は何人いるのだろうかと思いました。まして、コピペではなく、自前の感想文が書ける人がいたら、(私のような凡人からみれば)”天才”ではないかと思います。
既にネットにちらほら出ている感想文も読みましたが、いづれも蓮実氏の選評を口真似して、「文学の可能性」「文学の豊饒さ」などといったお定まりのことばを並べただけの、ありきたりなものでした。こういった表記の実験に対して、ほとんど意味が擦り切れたような凡庸なことばでしか感想が書けない、その滑稽な光景にこそこの作品の性格が表れているような気がしてなりません。
たとえば、テレビで三流経営評論家のような陳腐なことばでご託宣を垂れている村上龍が、この作品を云々できるほどの言語感覚をもっているとはとても思えないのです。”原子力ムラ”と同じような”文壇ムラ”があって、そこには抗えない空気が流れているのではないか、と思いたくもなります。それは、川上弘美だって小川洋子だって山田詠美だって同じでしょう。
電事連ご用達の原発芸人・ビートたけしを「世界のたけし」に持ち上げたのも蓮實重彥氏ですが、なんだかまたしても蓮實氏にしてやられたという気がしないでもありません。そのうちビートたけしや太田光などが、さもわけ知り顔に「いや~、あの小説はなかなか面白かった」なんて言い出すのかもしれません。
いろんな意味で、この作品に対する”天才”たちの批評が待ち望まれます。