しつこいようですが、今夜もテレビ東京の「カンブリア宮殿」で、臆面もなく陳腐なご託宣を垂れている村上龍をみながら、こういうのが現代文学をけん引している作家だともてはやされているんだから、この国の文学が衰退するのは当然だろう、とひとり悪態を吐いていました。

学生時代に文壇デビューした村上龍は、社会に出て働いた経験はほとんどなく、典型的な「世間知らず」です(唯一霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいです)。だから、あのように海千山千の社長の話に、なんの留保もなく「すごい」「すごい」と感激するのでしょう。

社会経験がないのですから”留保するもの”なんてあろうはずもないのです。要するに、中身はスカスカだということです。そう考えると、文学ってなんだろうと思ってしまいます。

注目の黒田夏子の「abさんご」について、村上龍は芥川賞の選評で、次のように書いていました。

 推さなかった。ただし、作品の質が低いという理由ではない。これほど高度に洗練された作品が、はたして新人文学賞にふさわしいのだろうかという違和感のためである。(略)その作品の受賞に反対し、かつその作品の受賞を喜ぶという体験は、おそらくこれが最初で最後ではないだろうか。(『文藝春秋』2013年3月特別号)


要はわからなかったのではないか。だったら、正直にそう書けばいいのです。こういったところにも、村上龍のウソっぽさが出ているように思います。村上龍に比べれば、山田詠美の選評のほうが好感が持てました。

 正直、私には、ぴんと来ない作品で、何かジャンル違いのような印象は否めなかったし、漂うひとりうっとり感も気になった。選考の途中、前衛という言葉が出たが、その言葉を使うなら、私には昔の前衛に思える。洗練という言葉も出たが、私には、むしろ「トッポい」感じ。


一方、芥川賞の発表の日、東浩紀は、Twitterで次のように芥川賞を「批判」していたそうです。

芥川賞がじつに閉鎖的で腐った文学賞だという、つい10年まではだれもが知っていた常識を忘れ去られ、ネット時代になってかえって(なにも実態は変わっていないのに)なにか偉いものなんだからすごいんだろうというブランド強化が始まっているあたりに、日本社会の限界を見るのは考え過ぎかしらね。


芥川賞は日本文学の最先端とかとはなんの関係もない。菊池寛の業績に集まった遺産相続者たちが、自分の目の届く新人に恩を売るための賞でしかない。だから文芸5誌からしか選ばれる。そんなの常識。ライトノベルが芥川賞取れないのとか、サッカー推薦で東大入れないんですか、と同じくらいナンセンス。


芥川賞が腐っているのはそのとおりだとしても、「芥川賞が日本文学の最先端」だなんて誰も思ってないでしょう。なんだかトンチンカンがトンチンカンを批判しているようで、目クソ鼻クソのように思えてなりません。東浩紀は都知事選の際、猪瀬直樹の応援演説をしたそうですが、そういった俗流政治にすり寄る感覚の先にあるのは、政治に奉仕する文学の醜悪な姿だけです。

同じ保守でも、大塚英志が言うように、「江藤淳のように『日本の不在』に徹底して耐えようとする保守はもういない」(『物語消費論改』)のです。東浩紀も石原慎太郎や猪瀬直樹と同じように、ただ「悪党達の最後の逃げ場」のような「愛国心」を無節操に振りかざして、動員の思想のお先棒を担いでいるだけです。そこには保守の矜持のカケラもありません。

このように口先三寸の世間知らずたちが文学や社会を語ることの悲劇(喜劇?)が、そのまま今のこの国の文学や批評の悲劇(喜劇?)につながっているように思えてなりません。トンチンカンな世間知らずにもかかわらず、妙に”世間知”だけは長けているのが彼らの特徴です。
2013.02.14 Thu l 本・文芸 l top ▲