今日の朝日新聞に「官邸にキタノ」という見出しで、ビートたけしが安倍首相と並んで映っている写真が掲載されていました。
それは、「世界のたけし」が安部首相の肝入りで設置された「アジア文化交流懇談会」のメンバーに任命され、その第一回会合に出席した写真でした。排外主義的なネトウヨとの関係が取りださされる安倍首相が「アジア文化交流」とは悪い冗談だとしか思えませんが、それ以上にたけしが「有識者」として「政府委員」に任命されるなんて、まさに悪貨が良貨を駆逐する今の時代を象徴する光景のように思えてなりません。
前にも紹介しましたが、これは福島第一原発事故の前年に行われた原子力委員会委員長(当時)・近藤俊介氏との対談における、たけしの発言です。
彼は同じ対談で、「新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい」「相変わらず原子力発電に反対する人もいるけど、交通事故の年間の死者の数を考えて自動車に乗るのを止めましょうとは言わない」などと言って、原発を懸念する声をヤユしていました。このようにたけしは、弟子の浅草キッドなどとともに、電事連ご用達の”原発芸人”と言ってもいいくらい、原発に関しては確信犯でした。
もとより彼の”毒舌”も、このような事大主義と背中合わせなものでしかありません。ベネチア映画祭など海外の映画賞にあれほど執心するのも(たけしが照れ笑いを浮かべながら映画祭から帰ってくる映像は、毎年の恒例行事のようになっていますが)、ひとえに自分の映画を権威づけたいからなのでしょう。そうやって「世界のたけし」の虚像がつくられたのでした。強いもの・大きなものにはヘラコラして、弱いもの・マイナーなものには”毒舌”を吐きこきおろす、それが彼の芸風にほかならないのです。
三國連太郎と被差別民の研究で有名な沖浦和光氏との対談集『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)のなかで、「支配文化」に対する「反文化」、「上層文化」に対する「下層文化」、「中央文化」に対する「周辺文化」の担い手であった芸能が、国家の庇護のもとに入ることについて、二人はつぎのように語っていました。
たけしも浅草フランス座の「寄席的見世物」(沖浦和光氏)の出身です。だから逆に上昇志向が強いのかもしれませんが、あえて言えば、「河原乞食」なら「河原乞食」でいいじゃないかと思います。そんなに権力や権威にすり寄って偉ぶりたいのかと思います。偉ぶることが芸人にとってなにほどの意味があるのかと思います。技芸に生きる人間の、「河原乞食」としての矜持はないのかと言いたいのです。
フライデー事件で彼が干された際、志村けんがたけし軍団を援助したという”美談”(嘘八百)がネットで流布されているそうですが、実際は逆で、当時、「たけしが(闇社会に食い物にされて)かわいそうだ」という同情論さえあったのです。先述した『大阪府警暴力団担当刑事』にもたけしの名前が出てきますが、事件をきっかけに右翼の街宣のターゲットになったたけしに対して、その筋のある人物(故人)が”後見人”になることで、ことを収めたそうです。右翼の高名な活動家が参院選に出馬した際、麻布十番で行われた会見の場に、横山やすしとともにたけしが同席しているのを見て、私も奇異に思ったことを覚えています。
たけしの任命が自民党のマスコミ対策であることは明白ですが、「TVタックル」のような”時事討論番組”の司会者が「政府委員」に任命されてもなお、彼を司会者として登用しつづけるテレビ局の見識も問われて然るべきでしょう。
「官邸にキタノ」なんて、能天気にオヤジギャクを言ってる場合じゃないのです。
>> 酒井法子の復帰と芸能界
それは、「世界のたけし」が安部首相の肝入りで設置された「アジア文化交流懇談会」のメンバーに任命され、その第一回会合に出席した写真でした。排外主義的なネトウヨとの関係が取りださされる安倍首相が「アジア文化交流」とは悪い冗談だとしか思えませんが、それ以上にたけしが「有識者」として「政府委員」に任命されるなんて、まさに悪貨が良貨を駆逐する今の時代を象徴する光景のように思えてなりません。
原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)
前にも紹介しましたが、これは福島第一原発事故の前年に行われた原子力委員会委員長(当時)・近藤俊介氏との対談における、たけしの発言です。
彼は同じ対談で、「新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい」「相変わらず原子力発電に反対する人もいるけど、交通事故の年間の死者の数を考えて自動車に乗るのを止めましょうとは言わない」などと言って、原発を懸念する声をヤユしていました。このようにたけしは、弟子の浅草キッドなどとともに、電事連ご用達の”原発芸人”と言ってもいいくらい、原発に関しては確信犯でした。
もとより彼の”毒舌”も、このような事大主義と背中合わせなものでしかありません。ベネチア映画祭など海外の映画賞にあれほど執心するのも(たけしが照れ笑いを浮かべながら映画祭から帰ってくる映像は、毎年の恒例行事のようになっていますが)、ひとえに自分の映画を権威づけたいからなのでしょう。そうやって「世界のたけし」の虚像がつくられたのでした。強いもの・大きなものにはヘラコラして、弱いもの・マイナーなものには”毒舌”を吐きこきおろす、それが彼の芸風にほかならないのです。
三國連太郎と被差別民の研究で有名な沖浦和光氏との対談集『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)のなかで、「支配文化」に対する「反文化」、「上層文化」に対する「下層文化」、「中央文化」に対する「周辺文化」の担い手であった芸能が、国家の庇護のもとに入ることについて、二人はつぎのように語っていました。
沖浦 権力のヒモが付いて国家の庇護下に入って、お上から勲章やゼニカネを貰って喜んでいると、そこから芸能の堕落が始まるのが世界の芸能史の通例ですね。
三國 やはり時代を主導する精神に疑問を抱き、既成の支配体制の矛盾を批判して、時代のあり方や人間の生き方を、飽くことなく追及していこうとする意欲 ― それをどう表現していくかという貪欲な意欲が、その時代を生きようとする芸人にとって本当に大事なんですね。
沖浦 そうです。地位が安定しフトコロ具合が良くなると、想像力や構想力もしだいに自由奔放性を失って、芸能表現の生命力が枯渇してしまうんですね。(略)
(「ヒモ付き芸能の堕落」)
たけしも浅草フランス座の「寄席的見世物」(沖浦和光氏)の出身です。だから逆に上昇志向が強いのかもしれませんが、あえて言えば、「河原乞食」なら「河原乞食」でいいじゃないかと思います。そんなに権力や権威にすり寄って偉ぶりたいのかと思います。偉ぶることが芸人にとってなにほどの意味があるのかと思います。技芸に生きる人間の、「河原乞食」としての矜持はないのかと言いたいのです。
フライデー事件で彼が干された際、志村けんがたけし軍団を援助したという”美談”(嘘八百)がネットで流布されているそうですが、実際は逆で、当時、「たけしが(闇社会に食い物にされて)かわいそうだ」という同情論さえあったのです。先述した『大阪府警暴力団担当刑事』にもたけしの名前が出てきますが、事件をきっかけに右翼の街宣のターゲットになったたけしに対して、その筋のある人物(故人)が”後見人”になることで、ことを収めたそうです。右翼の高名な活動家が参院選に出馬した際、麻布十番で行われた会見の場に、横山やすしとともにたけしが同席しているのを見て、私も奇異に思ったことを覚えています。
たけしの任命が自民党のマスコミ対策であることは明白ですが、「TVタックル」のような”時事討論番組”の司会者が「政府委員」に任命されてもなお、彼を司会者として登用しつづけるテレビ局の見識も問われて然るべきでしょう。
「官邸にキタノ」なんて、能天気にオヤジギャクを言ってる場合じゃないのです。
>> 酒井法子の復帰と芸能界