安井かずみがいた時代


島崎今日子『安井かずみがいた時代』(集英社)を読みました。

これは、フリーランスのライター兼編集者の島崎今日子が、作詞家の故・安井かずみと交遊があった人たちに、当時の思い出とその人となりを聞き書きした本です(初出は『婦人画報』の連載)。

安井かずみは、60年代の後半から70年代・80年代にかけて数々のヒット曲を生み出した知る人ぞ知る作詞家です。しかし、1994年3月肺がんのため、55歳で早すぎる生涯を閉じたのでした。

巻末の「楽曲リスト」を見るにつけ、そのヒット曲の多さとともに彼女の作詞家としての才能を今さらながらに痛感せざるをえません。「リスト」のなかから私が口ずさむことができる楽曲をあげれば、つぎのようになります。

「若いってすばらしい」槙みちる
「青空のある限り」ザ・ワイルド・ワンズ
「恋のしずく」伊東ゆかり
「シー・シー・シー」ザ・タイガース
「ラブ・ラブ・ラブ」ザ・タイガース
「経験」辺見まり
「わたしの城下町」小柳ルミ子
「自由に歩いて愛して」PYG
「片想い」中尾ミエ
「あなただけでいい」沢田研二
「折鶴」千葉紘子
「赤い風船」浅田美代子
「危険なふたり」沢田研二
「草原の輝き」アグネス・チャン
「危ない土曜日」キャンディーズ
「激しい恋」西条秀樹
「よろしく哀愁」郷ひろみ
「不思議なピーチパイ」竹内まりや

安井かずみより下の世代の私でさえこれだけ列記することができるのですから、同世代の人たちにとっては、文字通り安井かずみが作った歌が青春の思い出と重なって、もっと感慨深いものがあるのではないでしょうか。

ムッシュかまやつは、安井かずみが最も輝いていたのは70年代だと言ってました。

僕は、ZUZU(引用者注・安井かずみの愛称)のことサンジェルマン・デ・プレをちょっと切り抜いて持ってきたみたいな感じの人だと思ってずっと見ていました。七〇年代はフランス文化の時代だったけれど、ロンドンにもパリにもモードにも対抗して、ヒッピーみたいなファッションがあった。いつもカルチャーとサブカルチャーの両方があって、彼女も僕もそのどっちにものっかっていたかった。もうあんな人は出てこないと思う。


実際に作詞家としての活躍のみならず、時代の先端をゆくファッションで着飾り、ロータス・エラン(のちにメルセデス4ドア)を駆って、夜ごと六本木のイタリア料理店「キャンティ」に出没し、華麗な人脈のなかで「小動物のように飛び回っていた」(ムッシュかまやつ)彼女は、当時の若い女性たちのロールモデルであり、憧れの対象でもあったのです。

私自身、東京で初めて勤めた会社が六本木でしたので、「キャンティ」がある飯倉片町のあたりもよく知っています。「キャンティ」には90年代の終わりに2~3回行ったことがあるだけですが、それでもこの本を読んでいたら、私自身のあの”甘酸っぱい時代”のことが思い出されて、ちょっとセンチメンタルな気分になりました。

たしかに70年代から80年代にかけての「時代の気分」というのはあったのだと思います。そして、安井かずみが、その「時代の気分」を体現するひとりだったことは間違いないでしょう。

安井かずみは、「私はフェリスだから」といつも言っていたそうですが、彼女が横浜生まれの横浜育ちで、小学校からフェリス女学院に通ったということも大きかったように思います。

当時私が勤めていた会社の社長は、70年代にヨーロッパ(主にフランス)のポストカードやポスターを日本に最初に紹介した人物として有名で、のちに会社が倒産したとき(!)、その功績が日本経済新聞にも出たほどですが、彼は大学を出たあと、会社を興すまで芸能界の周辺にいて六本木界隈で遊んでいたそうで、よくその頃の話をしていました。

そんな社長がいつも口にしていたのは、如何に横浜に憧れたかという話です。昔の横浜は今と違って活気があって輝いていたし、横浜にしかない先進的な文化もあり、スノッブな若者たちにとって憧れの土地だったのです。

しかし、「救急車のように」男をとっかえひっかえしていた安井かずみが「運命の人」加藤和彦と知り合ってから、彼女の生活は一変するのでした。親友の加賀まりこは「今度はいい人なのでうまくいきそうよ」と言っていたそうですが、加藤と結婚してからは、一心同体と言ってもいいくらい二人の生活を優先し、健康的で家庭的な生活に変えていくのです。それにつれ、独身時代の友達も離れていったそうです。さらに仕事でも、加藤が書いた曲にしか詞を書かないようになり、売れっ子作詞家の地位も未練なく捨てたのでした。

でも、そんなハイソでエレガントで仲むつまじい生活も、実は演技の部分もあったのではないかという関係者の証言があります。そのひとり吉田拓郎は、加藤和彦の傑出した才能は認めながらも、二人の生活についてはかなり辛辣に語っていました。

「(引用者:加藤和彦は)雑誌ではヨーロピアンナイズされた粋な男のように書かれているけれど、むしろ鈍臭くて、女から見て魅力を感じるわけがないんですよ。だから、自分より先を歩いてくれる女じゃなきゃダメな加藤がZUZUを選んだのはわかるんですけど、歴戦の兵(つわもの)のZUZUがなんでそんな頼りない男に熱を上げたのか、さっぱりわからない」


「久しぶりに会ったZUZUは、お前、そんなことしないだろう、と思うくらい家庭の中にいる女をやっていた。なんかちっちゃくなったなって。加藤のほうは立派な男になっていました。お酒が飲めなかった男がワイン通になっていて、えらく一流好みになっていた。(略)」


また、ちょっと長くなりますが、二人の家に泊まったときのつぎのようなエピソードも語っていました。

「朝、『ねぇ、朝ご飯よ』とパンケーキを焼いてもってきてくれるんですよ。市販のパンケーキ・ミックスなんです。『えっ、お前んち、朝からこんな甘いもん食っているのか』と言いながら、甲斐甲斐しくインスタントのパンケーキを焼いて持ってきてくれるZUZUというのは、僕らからすると絵的におかしいな、と思うわけです。家はまるでホテルで、まったく生活感のない空間でした。普通、夫婦で十年近くも暮らせばもうちょっと漂ってくるものがあるけれど、それがまるでない。もっと言えば、あの六本木の家には暮らしなんて存在していなかった。人間は普通、あんなところに長年いたら疲れてしまいますよ。そんなものやるわけがないはずの加藤がZUZUと一緒にテニスやゴルフをやっていたのも、僕には、関係を維持するために必死になって共通の話題を作っているようにしか見えませんでした」


なんだか中村光夫の「私小説演技説」を思い出しますが、安井かずみの実妹のオースタン順子も、吉田拓郎の証言を裏付けるようなことを言ってました。

「姉は電話で私に『順ちゃん、表向きはそうやっているけれど、そんなもんじゃないのよ』と言ってました。誰にでも表と裏はありますけれど、二人の理想的な絵の中に自分たちが収まるように演じていたところはあったのでしょう」


安井かずみの死から7カ月後、二人の別荘があったハワイのカルパニアで散骨式が行われたのですが、夫の加藤和彦は翌日、「友達を待たせているので」と言ってそのままイタリアに飛び立ったのだそうです。その待たせていた友達というのが、新しい恋人の声楽家・中丸三千繪でした。葬儀の際、「僕は、ZUZUとイエス・キリストと三位一体でこれから生涯生きていきます」と挨拶して参列者の涙を誘った加藤和彦は、1周忌を待たずに中丸三千繪と再婚して周囲を驚かせたのでした。安井かずみの主治医だった東京医大の加藤治文は、成田空港で加藤和彦にばったり会った際、「僕の新しい妻です」と中丸を紹介されて、「腰がぬけるくらい」驚いたという話をしていました。

それにしても、写真を見ると、ファッションといいメークといい、安井かずみと鈴木いづみはホントによく似ているなと思います。年齢は10歳違いますが、同じように70年代を疾走した鈴木いづみは、「老衰したい。ジタバタみぐるしくあばれて『死にたくない』とわめきつつ死にたい」(『いつだってティータイム』)と言っていたのですが、老衰どころかわずか36歳で自死してしまいました。安井かずみはスピード狂だったそうですが、彼女もまた、鈴木いづみと同じように、フルスロットルで「太く短く生きた」と言ってもいいのかもしれません。

ムッシュかまやつは、「こんな疲弊していく日本を見たくなかっただろうから」早く亡くなったのは「ちょうどよかったんじゃないかな」と言ってましたが、たしかに、安部首相の肝入りで設置された「アジア文化交流懇談会」の席に、有識者気取りでアナクロな政治家と一緒に座っている、かつての親友のコシノジュンコの姿を見なくて済んだだけでも、「よかった」と言えるのかもしれません。

二十代自分

先日、たまたま押し入れの衣装ケースのなかから当時の自分の写真を見つけました(横は近影)。手に取ると、「ああ、あの頃は若かったなぁ」とせつないような哀しいような気持になりましたが、私たちは、これから70年代から80年代のキラキラ輝いていた時代の思い出を抱えて、(鈴木いづみも安井かずみもいない)老後を送ることになるのでしょう。そう思うと、再びせつないような哀しいような気持になりました。

>> 加藤和彦さんの死 
2013.05.24 Fri l 本・文芸 l top ▲