
林真理子の『野心のすすめ』(講談社現代新書)を読みました。
昔、つきあっていた彼女は、林真理子の大ファンでした。実際に林真理子に会って話をしたこともあるそうで、「とってもいい人だった」と言ってました。
しかし、私は林真理子のどこがいいのか、さっぱりわかりませんでした。「女性の本音を書いている」と言うのですが、それは裏返せば身も蓋もないことを書いているようにしか思えませんでした。
一方、林真理子は、そういった身も蓋もないことを書いた本(デビュー作『ルンルンを買っておうちに帰ろう』)を出したのも計算ずくだったと言うのです。
当時の書店の女性エッセイの棚には、落合恵子さんや安井かずみさんのような、女性らしい品のある本しか並んでいませんでした。「ああ、ここに爆弾をぶち込めば売れるだろうな」と私なりのマーケティングをしたんです。恋愛やセックスのあけすけなエピソードやちょっと下品なことまで、とにかく誰も書いていないような女性の本音を書けば絶対に売れるはずー。
あの時は、悪魔に魂を売り渡してもいいとさえ思っていました。普通のことを書いていたら、無名の自分が世の中に出られるはずはないとわかっていたので、何か過激なことをしなければならなかった。
これを正直(本音)と見るか、あざとい(野心)と見るか、人それぞれでしょうが、この本には、野心が希薄な時代だからこそあえて「野心」を言挙げする彼女なりの考えも含まれているように思います。内田樹氏もかつて『下流志向』で書いていたように、学ばない・働かない若者たちがマスとして存在する時代だから、(野暮を承知で)努力をすることの大切さを強調しなければならないのでしょう。
林真理子は、「『今のままじゃだめだ。もっと成功したい』と願う野心は、自分が成長していくための原動力」で、そのためには「野心に見合った努力が必要で、野心が車の「前輪」なら努力は「後輪」だ、と言います。
たとえば学生さんや就職浪人の方々がアルバイトをするのであれば、二流三流ばかりでつるんでしまいがちな居酒屋チェーンではなく、少しでも実入りのいいアルバイトをしようとして学校名で差別されるような経験をしたほうがいいと思います。
社会に出てからも同じです。
正社員として雇ってもらうことが叶わず、非正規雇用で差別された悔しい思いをしているなら、派遣社員の友人と、会社や社会の愚痴を言い合っているだけでは何も変わりません。
身も蓋もない言い方だけど、でも、痛いところをついているのはたしかでしょう。
コンビニの前でウンコ座りしている中学生とそれを横目に塾に通っている中学生が、10年後に差が付くのは当然だろう、と言った人がいましたが、正直私もそう思います。みんな平等なのだから、彼らに対等にチャンスを与えるべきだという考えは、理念としてはありえますが、現実にはありえないのです。
もちろん、すべてを個人の努力のせいにするのはあまりにも単純すぎますし、それはややもすれば弱肉強食の「自己責任論」にもつながりかねません。努力しても報われない社会の構造もたしかにあるわけで、そういった社会の不条理にも目を向けるべきでしょう。ただ、だからと言って、学ばない・働かない・努力しなくていいということにはならないのです。
林真理子は「無知の知」という言い方をしていましたが、みずからが「無知」であるという自覚(無知の知)のない人間に、どうやって無知であることを自覚させるかは、むずかしい問題です。永山則夫が「無知の涙」を流したのは、ネット以前の話です。病気をして仕事を失ったら生活保護を受けるしかないようなフリーターたちが、一方でナマポ叩きをする、その浅はかさ(無知)の根底にあるのは、「努力をしない」人生に対する勘違いと開き直りでしょう。類は友を呼ぶネットの出現によって、そういう勘違いと開き直りが生まれたのです。
私が最近の若い人を見ていてとても心配なのは、自分の将来を具体的に思い描く想像力が致命的に欠けているのではないかということです。
時間の流れを見通すことができないので、永遠に自分が二十代のままだと思っている。フリーターのまま、たとえば居酒屋の店員をずっとやって、結婚もできず、四十代、五十代になったときのことを全く想像していないのではないか、と。
より具体的に言えば、「このまま一生ユニクロを着て、松屋で食べればオッケーじゃん」という考え方です。
たしかに、身も蓋もない言い方ですし、言葉尻をとらえればいくらでも批判できます。しかし、現実を見ると、盗人にも三分の理ではないけれど、林真理子にも三分の理があるように思えてならないのです。こういうベタな考えは案外人生の核心をついていて、バカにできないのではないでしょうか。
林真理子ファンだった彼女は、いつも口癖のように私に「欲がないね」と言ってました。そして、そんな私に三下り半を突きつけると、ひとりアメリカに旅立ったのですが、今になれば彼女の言い分にも三分の理があったように思えるのでした。