
『新潮45』(7月号)の「橋下徹の落日」という特集に惹かれ、駅前の書店で買って電車のなかで読みました。
特集の記事は、なにが言いたいのかわからない徳岡孝夫氏の記事以外はどれも正鵠を射ていて、面白く読めました。橋下氏や維新の会が「終わった」のは、もはや誰の目にもあきらかのように思いますが、ただ大阪だけはそうではないのだとか。信じられない話ですが、大阪では未だに橋下氏はヒーローなのだそうです。昔、藤本義一や上岡龍太郎などが、「11PM」などでよく、大阪人のなかには「反中央・反権力」の気質があるなんて胸を張って言ってましたが、その行き着く先が橋下(ファシスト)なのかと言いたくなります(その前に横山ノックもいたけど)。
ただ、『新潮45』の今月号では、特集記事もさることながら、元大蔵官僚の榊原英資氏とエコノミストの水野和夫氏の対談「先進国だけが豊かになれる『近代』は終わった」が面白くて、思いがけない収穫を得た感じでした。
二人に共通しているのは、アベノミクスに対する懐疑です。アベノミクスが言う「デフレからの脱却」についても、今のデフレの正体は、通常の需給ギャップによるデフレなどではなく、「構造デフレ」だと言います。
その背景にあるのは、資源国の台頭、つまり、資源ナショナリズムの勃興による先進国と途上国の政治的力学の変化です。その典型例が、資源価格の高騰です。
水野 (略)一九九四年の原油価格は一バレル一七・二ドルで、日本は年間四・九兆円払えば原油や天然ガスなど鉱物性燃料を買えたのです。ところが二〇〇八年には、年間平均でいうと一バレル九九ドル、一時は一四七ドルまで上昇して、二七・七兆円出さないと同量の原油や天然ガスを買えなくなってしまった。
こういった20世紀末からはじまった新興国の台頭による資源価格の高騰によって、「エネルギーをタダ同然で手に入れることを前提に成り立っていた近代社会の根底が揺さぶられ」「先進国と周辺国の間の『交易条件』が大きく変わったのだと言うのです。
つまり、資源を安く手に入れて、それを元に生産した工業製品を高い価格で輸出する先進国の従来の「交易条件」が通用しなくなり、先進国の企業が儲からなくなったのです。その結果、いくら景気が拡大しても、デフレのままで国民の所得は増えないという状況が現出したというわけです。
榊原 (略)財務省の出しているデータによれば、九五年度から〇八年度にかけて、大企業製造費の売上高は四三兆円増えたのに、変動費も五〇兆円増えてしまった。つまり、変動費が増えた分、どこかが削られています。それが、人件費や利益だったと考えられます。
実際に、リストラや非正規雇用の拡大によって、人件費が削られているのは、私たちもよく知っているところです。これがあの「失われた20年」の内実なのです。
しかも、今までは先進国10億人の人間が石油を使っていただけでしたが、これからは新たに周辺国の50億人も使いはじめるのですから、さらに資源価格が高騰するだろうことは容易に想像できます。それがグローバリゼーションのもうひとつの側面で、だからこそ、資源が少しでも安く手に入る円高のほうがむしろ国益にかなっているのではないか、という二人の主張には説得力があります。
また、榊原氏が指摘するように、「世界経済の重力の中心が西から東に戻り始め」「中国やインドの世界経済への再登場」という「世界経済の数百年単位の大きな構造変化」も見逃すことができません。尖閣で寝た子を起こし、排外主義的なナショナリズムを煽り、「アジアの時代」に背を向ける安倍政権の姿勢は、そのうち大きなツケとなって跳ね返ってくるのは間違いないでしょう。
一方、グローバリぜージョンは、さらなる格差をもたらし、必然的に国民国家の解体へと進んでいかざるをえません。
水野 (略)アメリカのサブプライムローン問題が象徴しているのは、グローバル化が進むと、周辺部の貧しい国々だけでは足りなくて、中心の先進国の中にいる貧しい人たちからも収奪しようという資本主義の論理です。日本に広がっている貧困の問題も同じものです。
TPPによって、国民生活が大きな影響を受けるのは必至で、貧困率はますます高くなっていくでしょう。ユニクロではないですが、賃金の平準化によって年収100万円なんて当たり前の時代になるかもしれません。しかし、社会保障は削られ、もう国は面倒をみてくれないし、その余裕もないのです。
日の丸の小旗をうち振り「愛国」を叫びながら、グローバリゼーションに拝跪する「売国」的な道をつき進んでいるのが今の日本です。安部政権の政策は、「日本を、取り戻す」(自民党の選挙ポスター)ではなく「日本を、売り渡す」じゃないのか、と言った人がいましたが、たしかにどこが「日本を、取り戻す」ことになるのか、私にもまったく理解の外です。