今日、Yahooニュース(個人)にアップされた藤代 裕之の「インターネットと「私刑化」する社会」 は、非常に示唆に富んだ秀逸な記事でした。
記事のなかで、藤代氏がくり返し指摘しているのは、「ネットとマスメディアの共振が『私刑化』する社会を拡大させている」構造です。これは、大塚英志氏が『物語消費論改』で指摘した「旧メディア のネット世論への迎合」ということに符合しているように思います。
「私刑」は、従来『週刊新潮』や『週刊文春』などの週刊誌が得意としていた手法でした。しかし、最近は、ネット以前には発言の場がなかった人たち、なかでも終日ネットに張り付いている「ネットこそ真実」「ネットがすべて」のネット住人たちが、その手法をネットに持ち込み、人生がうまくいかない”負の感情”のはけ口にしている側面もあるように思います。
一方で、彼らを煽るメディアがあることも忘れてはなりません。藤代氏が言うJ-CASTニュースやイザ!やYahooトピックスなどのミドルメディアがそれです。ミドルメディアは、記事を売るわけではなく買う側で、サイトの広告収入によって成り立っています。よってとにかくアクセスを稼ぎページビューを増やす必要があります。そのために、意図的に煽るような記事を出す傾向があるのです。これも一種の”炎上商法”と言えるでしょう。
私たちの前にあるのは、こういった構造によって、いじめにも似た低劣な”センセーショナリズム”が生み出されるネットの日常です。もっとも、「私刑」をふりかざすのは、なにも無名な「バカと暇人」(中川淳一郎氏)ばかりとは限りません。
ブロガーのイケダハヤト氏は、同じブロガーのやまもといちろう氏との間の「ブログ論争」で、やまもと氏のブログがもっている「攻撃性」は、「『私刑』そのもの」で、「俺が許せないから裁いてやる、という論理は危険です。ネトウヨやネット自警団と変わらない理屈です」と批判していました(「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて )。
やまもといちろう(山本一郎)氏については、このブログでも何度も発言を紹介しているように、ネットやネトウヨに対する視点には教えられるところ大なのですが、ただ一方で、彼のブログに見られる必要以上に粘着質の個人攻撃に、私も常々違和感を覚えていたことはたしかでした。
ネットの場合、過激なことばで読者を獲得するという一面(芸風)もありますが、読者の反応によって逆に煽られ、「私刑」まがいにエスカレートする懸念もあるように思います。
ヘイトスピーチは、なにも新大久保の路上だけに存在するわけではないのです。言うまでもなく「私刑」もヘイトスピーチも同じ構図のなかでつながっています。ヘイトスピーチに関しては、作家の中沢けい氏が先日、「規制は少ないほうが良いという考えだった。で、この2か月で考え方が逆転して、ヘイトスピーチ規制は法的にしたほうが良いと思うようになった」とTwitterでつぶやいていましたが、私はネットの書き込みについても、権力が規制する”危険性”を重々承知の上で、それでもなお規制すべきではないかと思うことがあります。
路上のヘイトスピーチの背後には、多くの一般市民の「サイレントヘイトスピーチ」が存在していると言った人がいましたが、ネットの「私刑」も同じでしょう。いたずらにネットに幻想を抱くより、ネットは自由ではないし匿名でもない、総表現社会とは実は総監視社会でもあるのだということを、むしろはっきりさせたほうがいいのではないかと思ったりもするのです。
※記事のタイトルは、なんの関連もないのですが、昔読んだ五木寛之氏の小説のタイトルを借用しました。
記事のなかで、藤代氏がくり返し指摘しているのは、「ネットとマスメディアの共振が『私刑化』する社会を拡大させている」構造です。これは、大塚英志氏が『物語消費論改』で指摘した「旧メディア のネット世論への迎合」ということに符合しているように思います。
「私刑」は、従来『週刊新潮』や『週刊文春』などの週刊誌が得意としていた手法でした。しかし、最近は、ネット以前には発言の場がなかった人たち、なかでも終日ネットに張り付いている「ネットこそ真実」「ネットがすべて」のネット住人たちが、その手法をネットに持ち込み、人生がうまくいかない”負の感情”のはけ口にしている側面もあるように思います。
一方で、彼らを煽るメディアがあることも忘れてはなりません。藤代氏が言うJ-CASTニュースやイザ!やYahooトピックスなどのミドルメディアがそれです。ミドルメディアは、記事を売るわけではなく買う側で、サイトの広告収入によって成り立っています。よってとにかくアクセスを稼ぎページビューを増やす必要があります。そのために、意図的に煽るような記事を出す傾向があるのです。これも一種の”炎上商法”と言えるでしょう。
私たちの前にあるのは、こういった構造によって、いじめにも似た低劣な”センセーショナリズム”が生み出されるネットの日常です。もっとも、「私刑」をふりかざすのは、なにも無名な「バカと暇人」(中川淳一郎氏)ばかりとは限りません。
ブロガーのイケダハヤト氏は、同じブロガーのやまもといちろう氏との間の「ブログ論争」で、やまもと氏のブログがもっている「攻撃性」は、「『私刑』そのもの」で、「俺が許せないから裁いてやる、という論理は危険です。ネトウヨやネット自警団と変わらない理屈です」と批判していました(「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて )。
やまもといちろう(山本一郎)氏については、このブログでも何度も発言を紹介しているように、ネットやネトウヨに対する視点には教えられるところ大なのですが、ただ一方で、彼のブログに見られる必要以上に粘着質の個人攻撃に、私も常々違和感を覚えていたことはたしかでした。
ネットの場合、過激なことばで読者を獲得するという一面(芸風)もありますが、読者の反応によって逆に煽られ、「私刑」まがいにエスカレートする懸念もあるように思います。
ヘイトスピーチは、なにも新大久保の路上だけに存在するわけではないのです。言うまでもなく「私刑」もヘイトスピーチも同じ構図のなかでつながっています。ヘイトスピーチに関しては、作家の中沢けい氏が先日、「規制は少ないほうが良いという考えだった。で、この2か月で考え方が逆転して、ヘイトスピーチ規制は法的にしたほうが良いと思うようになった」とTwitterでつぶやいていましたが、私はネットの書き込みについても、権力が規制する”危険性”を重々承知の上で、それでもなお規制すべきではないかと思うことがあります。
路上のヘイトスピーチの背後には、多くの一般市民の「サイレントヘイトスピーチ」が存在していると言った人がいましたが、ネットの「私刑」も同じでしょう。いたずらにネットに幻想を抱くより、ネットは自由ではないし匿名でもない、総表現社会とは実は総監視社会でもあるのだということを、むしろはっきりさせたほうがいいのではないかと思ったりもするのです。
※記事のタイトルは、なんの関連もないのですが、昔読んだ五木寛之氏の小説のタイトルを借用しました。