最近、朝だけでなく夕方も歩いています。散歩なんてひと昔前までは考えられなかったことです。それだけ年を取ったということなのでしょう。

父親は70才で亡くなったのですが、それまでは近所の人たちと毎朝ウォーキングをしていました。どうも「歩け歩け」運動の世話人のようなこともやっていたようでした。

たまに実家に帰って朝まで起きていると、朝の5時すぎに「ウタ」(実家で飼っていた柴犬)の鳴き声が聞こえるのです。毎日ウォーキングに連れて行っていたので、「朝だよ。はやく行こうよ」という催促なのでしょう。

そして、父親がごそごそ起き出し身支度をして、「ウタ」と一緒に家を出るのでした。その様子を2階の窓から見ていると、朝もやのなかで「ウタ」が如何にも嬉しそうに飛び跳ねているのが見えました。父親はそんな「ウタ」に先導されるように、町外れに向かって黙々と歩いて行くのでした。私はそんな父親のうしろ姿を見ながら、年老いていくことのせつさなやかなしみのようなものをしみじみ感じたものです。

しかし、気が付いたら、いつも間にか私自身が同じようなことをしていたというわけです。

夕方の散歩は朝と違って、なるべく今まで通ったことのない道を歩くようにしています。今日はゲリラ雷雨の予報が出ていましたので中止にしましたが、昨日は、大倉山から新横浜、新横浜から上麻生道路を通って白楽駅まで歩きました。地元の人以外にはわからない話でしょうが、都合7~8キロくらい歩いたのではないかと思います。そして、帰ってからGoogle やYahooの地図でおさらいをするのも楽しみです。

地図を見ているときもそうですが、歩いているときも、いろんな想像力をはたらせている自分がいます。「どんな鳥も想像力より高く飛ぶことはできない」と寺山修司は言ったのですが、家でパソコンの前に座っているより、散歩などをしているときのほうが、はるかに想像力が解き放されているような気がします。それが「身体的」ということではないでしょうか。大事なのは、観念ではなく「身体」なのです。ちなみに、ネトウヨがパソコンの前でふくらませているのは、想像力ではなくただの妄想です。

ところで昨日、夕暮れの街を歩きながら、ずっと私の頭のなかを占領していたのは、「年をとっていいことなんかなにもないよ。はやく死にたいけど、なかなか迎えが来んのよ」という母親の声でした。

”財政危機”にある横浜市は、最近やたら重箱の底をつつくようにあれこれ言ってくるのですが、先日も市役所から問い合わせがあったので、その件で田舎の母親に電話をしたのでした。しかし、90才近くの母親は益々トンチンカンになっていました。半年前まであんなにしっかりした会話ができていたのに、何度も同じことをくり返さないとまともな答えが返って来ないようになっていました。

「預金通帳は今ないよ。××(妹の名)が預かると言っち持って行った」
「なに言ってるの、預金通帳の話なんかしてないよ」

まったく人聞きが悪いのです。知らない人が聞いたら、振り込め詐欺の電話のように思われるかもしれません。もっとも、電話は最初から不用心でした。

「オレだけど」
「エッ」
「オレ」
「ああ、××(私の名)ね」
「そう、元気?」

考えてみれば、これって典型的な「オレオレ詐欺」のパターンです。それから母親は、私が半分も理解できないような田舎の出来事を延々と話しはじめるのでした。

でも、冗談なんか言えるような心境ではないのです。親不孝な息子は、母親のことばになんだかひどく責められているような気がするのでした。そして、なんだかバチ当たりな人間のように思えてきたのでした。

まだ若かった頃、女の子とデートをしていると、ふと田舎でひとり暮らししている母親のことを思い出し、おれだけがこんな楽しい時間をすごしていていいんだろうかと、うしろめたい気持になることがありましたが、最近はそんな気持すら忘れていたのです。これじゃバチが当たっても仕方ないなと思います。
2013.08.21 Wed l 故郷 l top ▲