藤圭子が母親や恩師の石坂まさを氏の葬儀に参列しなかったのは、どうやら事実のようで、しかも母親や石坂まさを氏を恨んでいたという週刊誌の記事さえあります。もしかしたら、そういった軋轢も、彼女の心に暗い影を落としていたのかもしれません。
藤圭子は、北海道旭川の浪曲師の父親と三味線弾きの母親のもとに生まれ(出生地は岩手県)、極貧のなかで育ち、中学卒業と同時に一家で東京にやってきたと言われています。寒風吹きすさぶなかをゼニコもらうために、瞽女の母親に手を引かれ、門付してまわる。そんな幼い頃の記憶は、消したくても消えないものでしょう。
藤圭子の歌を「怨歌」だと言ったのは五木寛之ですが、五木寛之は、藤圭子死亡の報に際して、朝日新聞につぎのようなコメントを寄せていました。
「浅川マキ、藤圭子。時代のうつり変わりを思わずにはいられない。1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。ブルースも、ファドも『怨歌』である。当時の人びとの心に宿ったルサンチマン(負の心情)から発した歌だ。このような歌をうたう人は、金子みすゞと同じように、生きづらいのではないか。時代の流れは残酷だとしみじみ思う。日本の歌謡史に流星のように光って消えた歌い手だった。その記憶は長く残るだろう」
(朝日新聞デジタル 8月22日23時20分配信)
五木寛之が「艶歌」や「海峡物語」や「涙の河をふり返れ」などで描いた非情な流行歌の世界をまるで地で行くように(小説を参考にしたかのように)、藤圭子は、その消したくても消えない記憶をセールスポイントにして、”不幸”や”運命”を背負った「怨歌」歌手としてデビューしたのでした。それをプロデュースしたのが、作詞家の石坂まさを氏でした。
五木寛之は、そのあたりの経緯を、「怨歌の誕生」(文春文庫『四月の海賊たち』所収)という実名小説で描いています。
「怨歌の誕生」は、「私」が連載している毎日新聞のエッセイに書いた、つぎのような文章からはじまります。
藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを夜中に聴いた。彼女はこのレコードを一枚残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ、という気がした。
(略)日本の流行歌などと馬鹿にしている向きは、このLPをためしに買って、深夜、灯りを消して聴いてみることだ。おそらく、ぞっとして、暗い気分になって、それでも、どうしてももう一度この歌を聴かずにはいられない気持になってしまうだろう。
ここにあるのは、<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である。
(毎日新聞社刊『ゴキブリの歌』所収)
しかし、このエッセイが、藤圭子を売り出すレコード会社やプロダクションのパブリシティに利用され、ジャーナリズムの喧騒に巻き込まれることになるのでした。なかでも、テレビ番組の打ち合わせの席に現れた、「藤圭子の歌の歌詞からプランニングまでを一手に行っている」「沢ノ井氏」(石坂まさを氏の本名)の”独演”に、その場に居合わせた「私」たちが戸惑う場面が印象的でした。
彼ははっきりした音声で、力を込めて情熱的に語るタイプの人間だった。体を乗り出し、目をすえて、体ごと喋るような口調で喋った。そこには一種の強く昂揚した熱っぽさがギラギラ光っており、徒手空拳でマスコミを騒がせたスター歌手のプロモーターとなった青年の自信と過剰なエネルギーがあふれていた。
(略)
「ぼくも藤圭子を愛している。五木さんも藤圭子を愛してくださる。この共通の愛情にもとづいて作られる番組なら、ぼくはすべてをおまかせしていい、そういう気持です」
(「怨歌の誕生」)
そして、「沢ノ井氏」はつぎのような気になるセリフを残し、「私」たちを煙に巻いて去って行ったのでした。
「できるだけ暗く暗く持って行こうとしているんですがね。ちょっと目を離すとすぐ明るくなっちゃう」
(同上)
井上光晴の小説の題名を借用すれば、「怨歌」に「プロレタリアートの旋律」を見ることができた時代。そんなロマンが成立した時代。藤圭子はそんな時代を代表する歌い手でした。しかし、それは、彼女にとっても、私たちにとっても、”虚構”でしかなかったのです。
心の底に錘のように残っている消したくても消えない記憶。それと現実とが乖離すればするほど、そして、聡明でナイーブであればあるだけ、人は「記憶」と現実の間に引き裂かれ苦悩しなければならないのでしょう。
今日のJ-POPシーンを代表するシンガーソングライター・宇多田ヒカルの母親という顔をもちながら、一方で藤圭子は、母親に手を引かれ門付して歩いたあの日の記憶をずっと心に抱え、孤独に生きてきたのではないか。
>> 宇多田ヒカル賛