一般にはほとんど知られてない名前でしょうが、フリーライターの日名子暁氏が今月24日に亡くなったというニュースがありました。
日名子暁氏については、『日本の路地を旅する』の上原善広氏が、みずからのブログ「全身ノンフィクション作家」で、「『最後の雑誌屋』の死」と題して追悼文を書いていました。以下は、上原氏のブログに掲載されていた日名子暁氏のプロフィールです。
日名子氏の訃報に対しては、上原氏だけでなく、多くのフリーのライターや編集者たちが、ブログやTwitterでそれぞれ追悼のことばをアップしていました。「最後のルポライター」という言い方をしていた人もいましたが、たしかに朝倉喬司氏や日名子氏もいなくなり、「ルポライター」と呼べるような生きざまと志をもっている人はホントに少なくなったなと思います。
日名子氏は私と同郷で、しかも日名子という苗字はめずらしく、別府には昔「日名子ホテル」というのがありました。それでもしかしたら高校の先輩ではないかと思っていたのですが、どうやら私たちの高校ではなく、大分市にある別の高校の名門ラグビー部の出身のようです。
ルポライターの元祖・竹中労は、『ルポライター事始』(ちくま文庫)で、「車夫・馬丁・ルポライター」という言い方をしていました。もちろんそれは、自分を卑下して言っているわけではなく、週刊誌ジャーナリズムの「特権的編集者(労働貴族)」と「非良心的売文屋(下請ボス)」が牛耳る分業システム(差別の構造)からはみ出した、「えんぴつ無頼」の一匹狼たるルポライターの矜持と覚悟を示したことばなのです。
私も先日、某大手出版社が出している週刊誌の記者と会いましたが、やってきたのは如何にも育ちのよさそうな若くてきれいな女性の記者でした。どうしてこんな女の子があんなえげつない差別的な記事を書くのか、不思議でなりませんでしたが、要するに彼女は、単に「責任のない文章をベルトコンベアーに乗せるように、マスプロしていく体制」のひとつの駒でしかないのでしょう。竹中労の言うルポライターとは真逆の存在なのです。
「芸能と芸能者に対する理解、愛着がなくてどうして芸能記事が書けるのか」と竹中労は書いていましたが、このことばも「私刑」をスキャンダリズムと勘違いしている『週刊新潮』や『週刊文春』のような「特権的編集者」や「非良心的売文屋」には、所詮馬の耳に念仏なのでしょう。
安倍政権が今秋の国会に提出を予定している「特定秘密保全法」にしても、罰則対象から「報道目的」を除外するというアメ(裏取引)によって、新聞・テレビの大手メディアはいっせいに腰砕けになりましたが、それに対していちばん敏感に反応しているのは、フリーランスの記者や編集者たちです。なんの後ろ盾もない彼らにとっては、この法律は文字通り死活問題なのです。
竹中労は、このように、”言論の自由”なんてない、あるのは”自由な言論”だけだ、と常々言ってました。
日名子暁氏のようなルポライターがいなくなるというのは、”自由な言論”がなくなるということでもあります。そういった「勇気」と「犠牲」もいとわない一匹狼の矜持も志も姿を消すということでもあります。それはまた、「特定秘密保全法」に示されるような、相互監視の息苦しい社会の到来を象徴していると言えるのかもしれません。
日名子暁氏については、『日本の路地を旅する』の上原善広氏が、みずからのブログ「全身ノンフィクション作家」で、「『最後の雑誌屋』の死」と題して追悼文を書いていました。以下は、上原氏のブログに掲載されていた日名子暁氏のプロフィールです。
1942年、大分生まれ。中央大学法学部中退。週刊誌記者を経て、ルポライターとして活躍中。ヤクザ、外国人労働者、パチンコ、詐欺、金融など“裏の世界”を舞台とした領域を得意とする。主な著書に『マニラ通』『新宿歌舞伎町アンダーワールド』『不良中年の風俗漂流』『ストリップ血風録』など多数。
日名子氏の訃報に対しては、上原氏だけでなく、多くのフリーのライターや編集者たちが、ブログやTwitterでそれぞれ追悼のことばをアップしていました。「最後のルポライター」という言い方をしていた人もいましたが、たしかに朝倉喬司氏や日名子氏もいなくなり、「ルポライター」と呼べるような生きざまと志をもっている人はホントに少なくなったなと思います。
日名子氏は私と同郷で、しかも日名子という苗字はめずらしく、別府には昔「日名子ホテル」というのがありました。それでもしかしたら高校の先輩ではないかと思っていたのですが、どうやら私たちの高校ではなく、大分市にある別の高校の名門ラグビー部の出身のようです。
ルポライターの元祖・竹中労は、『ルポライター事始』(ちくま文庫)で、「車夫・馬丁・ルポライター」という言い方をしていました。もちろんそれは、自分を卑下して言っているわけではなく、週刊誌ジャーナリズムの「特権的編集者(労働貴族)」と「非良心的売文屋(下請ボス)」が牛耳る分業システム(差別の構造)からはみ出した、「えんぴつ無頼」の一匹狼たるルポライターの矜持と覚悟を示したことばなのです。
つまりは、労務者渡世なのだ。トビも荷役も土方もヨイトマケも、時と場合と注文に応じてやってのけなければならない。ルポライターとは、そういう職業なのである。
私も先日、某大手出版社が出している週刊誌の記者と会いましたが、やってきたのは如何にも育ちのよさそうな若くてきれいな女性の記者でした。どうしてこんな女の子があんなえげつない差別的な記事を書くのか、不思議でなりませんでしたが、要するに彼女は、単に「責任のない文章をベルトコンベアーに乗せるように、マスプロしていく体制」のひとつの駒でしかないのでしょう。竹中労の言うルポライターとは真逆の存在なのです。
「芸能と芸能者に対する理解、愛着がなくてどうして芸能記事が書けるのか」と竹中労は書いていましたが、このことばも「私刑」をスキャンダリズムと勘違いしている『週刊新潮』や『週刊文春』のような「特権的編集者」や「非良心的売文屋」には、所詮馬の耳に念仏なのでしょう。
安倍政権が今秋の国会に提出を予定している「特定秘密保全法」にしても、罰則対象から「報道目的」を除外するというアメ(裏取引)によって、新聞・テレビの大手メディアはいっせいに腰砕けになりましたが、それに対していちばん敏感に反応しているのは、フリーランスの記者や編集者たちです。なんの後ろ盾もない彼らにとっては、この法律は文字通り死活問題なのです。
人間を制度が支配するかぎり(むろん共産制であろうと)どこに”言論の自由”など存在しよう。しかし、いかなる時代・社会・国家においても、断乎として”自由な言論”はある。とうぜんそれを行使する者の勇気と、犠牲の上にである。
竹中労は、このように、”言論の自由”なんてない、あるのは”自由な言論”だけだ、と常々言ってました。
日名子暁氏のようなルポライターがいなくなるというのは、”自由な言論”がなくなるということでもあります。そういった「勇気」と「犠牲」もいとわない一匹狼の矜持も志も姿を消すということでもあります。それはまた、「特定秘密保全法」に示されるような、相互監視の息苦しい社会の到来を象徴していると言えるのかもしれません。