照實氏らと一緒に棺を霊きゅう車に運び、助手席に乗り込んだ。膝上に白い菊の花束を乗せ、火葬場のある品川区の桐ケ谷斎場に向かった。潤んだ目が、うつろに宙を見つめていた。
(スポニチアネックス 2013年8月28日06:00 配信記事)


追悼の空気に水を差すようですが、私は、この場面をテレビで見て、ちょっと引っかかるものを感じました。

聞けば、撮影しやすいように、霊柩車の運転席と助手席の窓は開けられていたそうです。事前にどんなやり取りがあったのか知りませんが、そうやってマスコミに「サービス」していたのです。

悲しみにうち沈んでいたのは事実なのでしょう。「潤んだ目が、うつろに宙を見つめていた」のも事実かもしれません。しかし、それでも、マスコミ向けの「サービス」は忘れなかったのです。その結果、私たちが目にするのは、上の記事のイメージに合致したような宇多田ヒカルの写真です。案の定、翌日のスポーツ新聞は、どこも似たような「うつろに宙を見つめて」いる宇多田ヒカルの写真が掲載されたのでした。そうやって永遠にメディアで使いまわされる(であろう)写真が「撮影された」のです。

また、スポーツ新聞やテレビのワイドショーなどの報道も、その日を境に、前日に宇多田ヒカルが公式サイトにアップしたコメントに沿った、「家族の愛情が溢れている」「胸を打たれる」というようなトーンに変わったのでした。写真とコメントがワンセットになったのです。

たしかに、母親を失った宇多田ヒカルの気持を思うとき、コメントに記されたことばにウソはないのでしょう。

ただ、コメントを出すタイミングといい、コメントの文面といい、あまりにも「できすぎている」気がしないでもないのです。そして、それまでの報道がすべてコメントに収れんされるようなマスコミの変わり身のはやさには、逆に首をひねらざるをえないのです。

それじゃ、ペニオク詐欺ではないですが、芸能人のブログになんの留保もなく、「すてき!」「感動しました!」「私もほしい!」「がんばってください!」とコメントを書き込むファンと同じです。

どうして医療施設ではなく新宿のマンションだったのか。身の回りの世話をするのに、どうして女性ではなく男性だったのか。宇多田ヒカルは、本当に母親の居場所を知らなかったのか。

悲しみにうちひしがれているなかで、さりげなく行われた”演出”に、私のようなひねくれ者は、いろいろと勘繰ってしまうのですが、まして芸能マスコミは、”下衆の勘繰り”が売りのはずです。みんなでバンザイしてどうするんだ、と言いたいのです。
2013.08.29 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲