
しつこいようですが、相変わらずオリンピック狂騒曲はつづいています。そして、案の定と言うべきか、ネットでは、「オリンピックに反対するやつは非国民だ」というような発言さえ出ています。
一方、オリンピック開催の追い風を受け、来春の消費税増税も既定路線に入った感じです。安倍政権はこの勢いを借りて、さらに原発再稼動・TPP参加・憲法改正へと一気呵成に進むつもりなのでしょう。けだし「オールジャパン」とは、そういう翼賛体制の謂いであり、「オリンピックに反対するやつは非国民だ」という空気が出てきてもなんら不思議ではないのです。
ひと昔前なら、「オリンピック反対!」の声を上げるのは左派だったはずです。それが社会の常識でした。「保守」の立場から、ヘイトスピーチ(排外主義)や原発再稼動やTPPや生活保護バッシングなどに反対し、ことばの上だけでなく果敢な行動でみずからの主張を実践している人気ブロガーのnoiehoie氏は、自著『保守の本分』(扶桑社新書)のなかで、反原発運動などで遭遇する「左翼」について、党派性にこだわるばかりで「危機感がない」と言ってました。オリンピックに対しても有効な反対論を打ち出すことができず、結果的に「オールジャパン」の翼賛体制に組み込まれている「左翼」もまた、能天気な既得権者にすぎないと言うべきでしょう。
みんな我も我もと、寄らば大樹の陰、風にそよぐ葦になっています。「オリンピックなんていらない」なんて言おうものなら、それこそ「在日認定」されて袋叩きに遭いそうな感じです。そして、その陰では、国家を食いものにする拝金亡者たちがよだれを垂らしながら、「経済効果」のソロバンをはじいているのです。
昨日の朝日新聞に、「東京五輪、決まったからには 招致反対の立場から注文」という記事が出ていましたが、これなども典型的な「アリバイ作り」の記事と言えるでしょう。要するに、みんな、突っ張ってないで寄らば大樹の陰になろうよ、ということなのでしょう。インタビューに答えるほうも答えるほうですが、この記事には朝日新聞の体質がよく出ているように思います。自他共に認める日本を代表するクオリティペーパーである朝日新聞は、「アカいアカいアサヒ」などと言われるほど一見進歩的なイメージがありますが、しかし、そんなイメージとは逆に、いざとなれば時の権力と密通して、きわめて反動的な姿勢を見せる、マッチポンプの顔ももっているのです。60年安保も70年安保も然り、原発推進が「社論」であった原発の問題も然りです。
noiehoie氏がネットで知られるようになったのは、「制度を改正するために個人を攻撃する必要はありません」という見出しが掲げられた新聞の意見広告でした。それは、いわゆる生活保護の「不正受給」問題で、お笑いタレントの河本準一がバッシングされた際、自民党の片山さつき議員が国会で河本の名前を出して批判したことに対して、疑問を呈する広告でした。
主権在民である日本において、一般市民が国会議員を批判するのは当然の権利です。しかし、その逆はあってはならないことです。
国会議員が、議場の中から一般市民(有権者)を名指しで批判するなど、これほどおかしいことはありません。ましてや、その個人攻撃をもって大義名分を勝ち取ろうなどとする手法は、議会制民主主義の手続きのイロハとして明らかにおかしいのです。
こう思ったnoiehoie氏は、ネットで意見広告のための賛同者を募ったところ、わずか2日間で200万円を越える寄付が集まったそうです。また、募金を募る趣意書には、つぎのような問いかけが書かれていたそうです。
「誰かの不幸を指さし、誰かを不幸にすることで初めて自分の幸せを感じさせるようなやり方がまかり通るような社会でいいのだろうか?」「このようなやり方で、本当に必要な議論ができるのだろうか?」「このような議論の進み方が、本当の民主主義なのでしょうか?」
私は、昨今の風潮を見るにつけ、「愛国」の声が大きくなればなるほど、社会が冷たくなっているように思えてなりません。愛国心と差別心はイコールなのでしょうか。愛国心というのは、人に対するやさしさや思いやりとは無縁なのでしょうか。人の痛みもわからないのでしょうか。まさかそんなはずはないでしょう。でも、片山さつき議員は、河本を名指ししたことで、ネトウヨたちのヒーロー(ヒロイン?)になったのでした。
「誰かの不幸を指さし、誰かを不幸にすることで初めて自分の幸せを感じさせるような」社会。ネトウヨに限らず、私たちの身近を見ても、ネットの出現によって、妬みや僻みや嫉みなど負の感情や、あるいは仕事や人間関係におけるストレスを、他人への差別で解消しようとする傾向がより顕著になり常態化した気がします。そして、愛国心がその方便に使われているように思えてならないのです。
noiehoie氏は、「生活保護制度の見直しは戦後一貫して何らかの裏の狙い、政策、意図に基づいて行われている」と言ってました。そして、今回の生活保護バッシングは、最初、民主党政権に対する批判の一環として行われ、そのうち暴対法絡みの制度改正に使われたと指摘していました。
本来生活保護を受ける資格のある(基準以下の貧困状態にある)人たちのなかで、実際に生活保護を受けている人の割合、つまり「捕捉率」は、日本の場合、社会保障の実態があきらかになるのを怖れて(?)役所が集計してないのではっきりしないのですが、大体「2割程度」と言われています。ちなみに、ドイツは64.6%、イギリスは47~90%、フランスは91.6%だそうです。このように、先進国のなかで日本は捕捉率が著しく低いのです。にもかかわらず、これだけのバッシングが起きているのです。むしろ、バッシングされるべきは、政治の役割を果たしてない(社会保障に怠慢な)政治家や官僚のほうでしょう。
noiehoie氏によれば、戦後初の生活保護バッシングは、1950年代半ばにあったのですが、そのときは、「内地に居留する旧植民地出身者を追い出す」ために使われたそうです。そして、バッシングと並行して「地上の楽園」北朝鮮への帰還事業がはじまったのでした。
そのとき、政府(旧厚生省)のキャンペーンのお先棒を担ぎ、真っ先に生活保護バッシングの記事を掲載したのが朝日新聞でした。「こんなに贅沢な朝鮮人受給者」「(受給者の家に行くと)真新しい箪笥があった」「仕事もしないで一日中のらりくらい」というような、バッシングの記事を連日掲載していたそうです。なんのことはない、ネトウヨが主張する「在日特権」のフォーマットは、60年前の朝日新聞にあったのです。
こうして見ると、今のオリンピック狂騒曲の本質も見えてくるようです。なにがホンモノでなにがニセモノか、それは右か左かなんて関係ないのです。
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