
小倉千加子氏の最新エッセイ集『醤油と薔薇の日々』(いそっぷ社)を読みました。
ただ、本の初版は今年の6月30日なのですが、個々のエッセイの初出一覧を見ると、収載されているのは、1993年から1994年に筑摩書房のPR誌「ちくま」に書かれたものと、2005年から2008年に「東京新聞」書かれたものの2本立てで、たしかに著名になっている文章など、題材に古さを感じさせる部分がないわけではありません。
『醤油と薔薇の日々』で主要なテーマになっているのは、「ある意味男性以上に個人としての達成と自己実現に駆り立てられている」女性の生き方についてです。言うまでもなくそれは、「他人への気遣いと役割の遵守」がなにより必要とされ、そのために「個人」や「自己」が二の次になるような女性の人生の現実があるからでしょう。
「他人への気遣いと役割の遵守」がいちばんよく出ているのは、無難でシックな「女性らしい」ファッションです。著者は、つぎのように書いていました。
女として地上に生を享けた以上、自己の肉体と融和できるようになることは、<女>になるために果たさなければならない最低で最大の目標であろう。<正しい>服装を身につけることは、女として制度にきちんと適応したことを意味するのだ。
街なかや電車のなかで女性の服装を見てすごく感じるのは、規範としての服装です。特に東京のプチブルにその傾向が強いように思いますが、通勤する女性や営業まわりの女性社員やおでかけする主婦の服装は見事なほど画一化され、我々から見てもそこに逸脱することのできないルールが存在することがよくわかります(男性の場合はルール以前の問題がありますが)。それどころか、小さな女の子の”よそいきの格好”にしても例外ではないのです。そうやって子どもの頃から女性としての「たしなみ」や「おしとやかさ」などの規範が刷り込まれ、ボーヴォワールではないですが、「女になる」のでしょう。
著者は、「派手で濃くて下品な大阪ファッション」を、欲望に従順な「民衆のエネルギーの直截的な誇示」と捉える一方で、「贅沢さを隠しつつ仄めかすという、遠回しの富と知性の暗示である」シックをセンスの拠り所とする東京のファッションを「不誠実」だと批判していました。しかし、私は、個人的には大阪ファッションより東京のファッションのほうが好きです。おそらく私のなかに、女性に対して「無難」や「従順」の欲求が潜んでいるからなのでしょう。それは、「無難」や「従順」とは無縁な女のきょうだいのなかで育ったという環境も大きいのかもしれません。
また、「美人の条件」のなかの「美しい女は、男に似ている」というのもよくわかる話でした。著者は、「顔だちにおける彫の深さや背の高さ、贅肉のないこと、などに集約される、つまり、女性における美の特徴は男性の模倣である」と書いていました。
私は昔つきあっていた女性のことを思い出し、合点がいきました。彼女は、モデル(ショーモデル)をやっていて、身長が173センチあり、彼女と初めて会った日、帰りの電車のなかで、目の前にいる女性たちがみんなカボチャや大根に見えたくらいきれいな子でした。ところが、つきあっているうちに彼女の美しさのなかに”男性的な要素”があることに気付いたのでした。ときに、彼女はもしかしたら性転換したオカマではないかという妄想に囚われたことさえありました(本人に言ったら殺されたかもしれませんが)。
モデルや女優などを見ても、彼女たちの美しさのなかに”男性的な要素”が含まれているのはたしかな気がします。もちろん、それは、「性のビジュアル的な特徴」が、男性を基準にしているからにほかなりません。ここにも男性中心主義の思想(観念)が入りこんでいるのです。著者は、つぎのように言います。
男たちは、よく、男と女は違うとか、女性本来の美しさなどと言って、男女の性差が自明のものであり、なおかつそれは強調されねばならぬと言う。が、女が<男>性の片鱗を備えてない場合は、決して美しいとは見なされないのである。従って、女性本来の美などというのは戯言であることがわかる。
女性性なるものが男性中心社会のなかで捏造された”制度”にすぎないというのは、頭では理解できますが、しかし、私たち自身の恋愛や結婚のなかでそれをどう理解していくかというのは、なかなか難しい問題です。街なかのバカ夫婦やバカップルを見ても、気が遠くなるような問題の難しさを痛感されられます。でも、一方で、そこに伏在する問題は、多くの女性たちにとって、日々直面し実感していることでもあるのです。
たとえば母親と娘の関係などは端的な例でしょう。「産むなら娘」というエッセイでは、文字通り「身体は嫁いでも心は実家に置いたまま」の娘の存在が指摘されていました。でも、それは、あくまで母親の願望にすぎないのです。「応援しているよ」と言いながら、いつも足をひっぱっている母親。親孝行な娘ほど母親の呪縛にがんじがらめになり、苦悩しなければならない理不尽な現実。
娘が実家に帰ると、冷蔵庫の中の物をあれもこれもと持たせるのは、お盆に冥界から帰ってきたご先祖様を供養するのに似ている。「先祖崇拝」とは「子孫崇拝」の別名である。そして、親にとって唯一の子孫は娘と娘の子どもになりつつある。
どんなに介護保険が改正されても、娘はそれ以上の「歩く介護保険」である。「老後は子どもの世話になるつもりはない」という、アンケートでは大多数の意見となる親の言葉は、親が自分に無理やりそう言い聞かせている呪文のようなものであって、「息子の嫁より実の娘を当てにする」ところに、本音はあるのだと思う。
「女性の時代」などというのは、安倍総理の「福島第一原発の汚染水は完全にブロックされている」という発言と同じように嘘八百ですが、こういった日常的な光景のなかから、制度や規範に抑圧された女性の問題をどう掬い上げていくかということは、私たちに課せられた大きな課題だと言えるでしょう。女の子のカバンや傘を持ってあげる「やさしさ」なんかどうだっていいのです。
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