ルポ 虐待


杉山春氏の『ルポ 虐待 ― 大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)を読みました。「大阪二児置き去り死事件」とは、私たちにもまだ記憶にあたらしいつぎのような事件です。

 二〇一〇年七月三十日未明、大阪ミナミの繁華街のそばの、十五平米ほどのワンルームマンションで、三歳の女の子と一歳八カ月の男の子が変わり果てた姿で見つかった。斎藤芽衣(引用者注:仮名)さんは、その二人の子どもの母親だ。
 この夏はとびきり暑かった。子どもたちはクーラーのついていない部屋の中の、堆積したゴミの真ん中で、服を脱ぎ、折り重なるように亡くなっていた。内蔵の一部は蒸発し、身体は腐敗し、一部は白骨化していた。
 事件後、この部屋から段ボール箱十箱分のゴミが押収されている。コンビニや弁当やカップ麺の容器、スナック菓子やパン等の包装類、生ゴミ、おむつなどだ。芽衣さんは、一月中旬に名古屋から大阪に引っ越して以来、一度もゴミを捨てていなかった。
 部屋と玄関の間の戸口には出られないように、上下二カ所水平に粘着テープが外側から貼られた跡があった。冷蔵庫は扉の内側まで、汚物まみれの幼い手の跡が残されており、食べ物や飲み物を求めたのではないかと推測された。そんな幼い手の跡は、周囲の壁にもたくさん残されていた。
 大阪ミナミの風俗店でマットヘルス嬢だった芽衣さんが、子どもを残して最後に部屋を出たのは、六月九日。その約五十日後、ゴミで埋まったベランダから部屋に入ったレスキュー隊に子どもたちは発見された。


23歳の母親は、「この間、出身地の四日市や大阪で遊び回り、その様子をSNSをとおし、写真と文章で紹介していた」のでした。

驚くのは、遺体発見の数時間前、タクシーでマンションに乗りつけ、そのあと玄関から出ていく母親の姿が、マンションの防犯カメラに映っていたことです。マンションは勤務する風俗店の寮だったのですが、異臭がするという入居者からの苦情を受けた管理会社からの通報で、彼女はいったん部屋に戻ってきたのでした。つまり、そのとき彼女は、「土足でゴミまみれの部屋に上がり、腐敗し、一部、白骨化した二人を」見ていたのです。しかし、わずか数分でマンションを出て行きます。著者が書いているように、既に彼女には「そのリアルを受け止める力はない」のでした。

そのあと、彼女は、四日市の友人や高校時代の恩師に「大事な人を亡くした」と電話をしています。しかし、あくまで「大事な人」という言い方で本当のことは言えないままなのでした。このように、自分のことを正直に言えない、ためらった末にごまかしてうやむやにしてしまうのが彼女の特徴です。一方、風俗店の上司には、「どうしていいかわからない。取り返しのつかないことをした。子どもが死んだかもしれない」と泣きながら電話し、それがきっかけで遺体が発見されるのでした。

ところが、さらに驚くことに、彼女は上司に電話したあと、サッカーのワールドカップの応援で知り合った男性と落ちあい、神戸のメリケンパークの観覧車の前でピースサインをして写真を撮り、三宮のホテルに行って朝まですごしているのです。それは、ちょうど上司からの通報で警察がマンションに入り、遺体が発見される時間帯です。しかも、彼女は上司からのメールで、マンションに警察が入ったことは知らされていたのでした。このように現実から逃避する支離滅裂さも彼女の特徴です。

彼女は、求められば断わらずに誰とでもセックスをしていたそうです。遺体発見のきっかけになった上司とも、面接したその日に関係をむすんでいるのでした。でも、彼女は、取り調べでも心理鑑定でも一貫して「性はなければない方がよかった」と答えているのです。

その矛盾した行動の背景には、中学時代に体験した集団レイプの被害があるのではないかという、専門家の指摘があります。男性の欲望は拒否するものではなく受け入れるものである、拒むとまた暴力をふるわれるかもしれないというトラウマがあるからではないかと。

レイプされた夜、彼女は薬物を大量に飲んで病院に運ばれています。しかも、当初、レイプされたという記憶がほとんどなかったと言われます。彼女の心理鑑定を務めた臨床心理学者の西澤哲(さとる)氏(山梨県立大学教授)は、解離性認知操作という視点からこれを「メタ操作」だと説明していたそうです。「忘れる」「記憶にとどめない」のがトラウマ的な経験に対する彼女の処理の仕方で、これは生母から虐待されていた幼児期から身につけたものではないかと言うのです。

実際に、彼女は高校1年のとき、誘拐窃盗事件を起こして少年院に入っているのですが、その鑑別の際、解離性人格障害の疑いがあるという指摘を受けているのです。しかし、治療にむすびつくことはなかったのでした。

また、父親の存在が彼女の人格形成に影響を与えたのではないか、と指摘する声もあります。高校の教師で名門ラグビー部の名監督でもあった父親もまた、運動部体質の厳格さの一方で、育児に関してはネグレクトと紙一重の放任主義でした。父親は二度結婚しており、最初の妻(彼女の生母)は教え子で、二番目の妻は子どもが通っていた英語教室の教師で、離婚後も女性関係は派手だったと言われます。また、幼い頃、女性を自宅に連れてきたこともあったそうで、そういった行為が子どもたちの心に暗い影を落としていたのではないかと指摘する人もいます。

離婚の際、父親はまるで制裁でも課すかのように、彼女に子育てを強要したと著者は書いていました。まだ若い未熟な娘が、小さな子どもを二人も抱えて生きて行くなんて、とうてい無理なことくらいわかっていたはずです。まして、娘の過去を考えれば尚更でしょう。

そもそも離婚にしても、最初、若い夫婦は離婚するなんて考えてなかったそうです。それが双方の親の話し合いで、離婚が決まり、「育児は母親がやるものだ」という理屈で、二人の子どもの面倒を彼女が引き受けることになったのでした。彼女も無理だということを言えないままそれに従います。しかも、離婚の原因が彼女の浮気にあったため、慰謝料もありませんでした。そして、なぜかその話し合いの席にいなかった生母が、子育てのサポートをすることになったのです。

話し合いのあと、若い夫婦は、子育てのサポートを頼むために生母の元を訪ねます。それも奇妙な話です。親たちが勝手に決めた離婚に対して、若い夫婦はみずからの意思をはっきりと示すことができないまま離婚が成立。結果的に彼女は、幼い子どもを連れて名古屋・大阪へと夜の街をさまようことになるのでした。

一方、行政の対応も批判は免れないように思います。著者が書いているように、「幼い子どもを抱えた、若い、自立する力が乏しい家庭にとって、親の物心両面の支援は命綱」なのです。でも、その親の「命綱」が望めないなら、手を差し伸べるのは行政の役割です。2000年に虐待防止法ができてから、虐待防止は申請主義ではなくなったにもかかわらず、この事件の経緯を見ると、やはりどこかなおざりな行政の対応を感じざるをえないのです。

経済面だけでなく、子育てに対して知識も知恵もない若い親だっているはずです。そういう親をどうやって社会的に孤立させずに行政がケアしていくか。まして虐待(ネグレクト)が予感されるケースなど、どうやって親子を保護していくのか。「人手と予算が足りない」というのは役所の常套句です。行政の事なかれ主義は批判されて当然だし、もっと批判されるべきではないかと思います。でないと、いつまで経っても、いくら法律ができても、何度会議を重ねても、なんにも変わらない気がするのです。

事件だけを見ると、なんというひどい母親なのかと思います。しかし、この本を読みすすむうちに、なんだかやりきれなくてせつない気持になっている自分がいました。孤立してどうしていいかわからない、右往左往している彼女の姿が想像されてなりませんでした。彼女の行為が支離滅裂で放縦で責任感が欠如しているのはたしかですが、それも彼女が育った環境を考えるとき、まったく同情の余地がないとは言えないのです。それに、ときに彼女なりの表現でSOSを発していた部分もあります。まわりの人間たちは、どうしてそれをキャッチして手を差し伸べてあげられなかったのかと思います。一歩踏み込んで手を差し伸べる人間が誰もいなかったのでした。

彼女は、著者が言うように、育児を放棄して子どもを死に追いやりながら遠くに逃げるわけではなく、子どもの近くにとどまっていたのです。しかも、彼女自身も、虐待(ネグレクト)の被害者なのです。

彼女は子どもに幼児期の自分を重ねて見ていたのではないかという指摘もあります。誰からも(父親からも祖父母からも社会からも)面倒を見てもらえず放置されている子どもたちに、幼児期の自分を重ねていたのではないかと。だから子どもの置かれた現実を直視できず、その現実から目をそらそうとしたのではないか。

 子どもに自分を重ねていた芽衣さんは、苦痛のなかで、孤独に苦しむわが子そして自分自身を直視できない。さらに夢の中に逃げる。それは瞬く間に五十日間という時間になった。二人の子どもは、そのような母の元で死んで行った。


 悲劇の真因は芽衣さんがよい母親であることに強いこだわりをもったことだ。だめな母親でもいいと思えば、助けは呼べただろう。「風俗嬢」の中には夜間の託児所にわが子を置き去りにして、児童相談所に通報される者がいる。立派な母であり続けようとしなければ、そのようにして、あおい(引用者注:仮名)ちゃんと環(同)君が保護されることもあったかもしれない。
 だが、芽衣さんは母親であることから降りることができなかった。
 自分が持つことができなかった立派な母親になり、あおいちゃんを育てることで、愛情に恵まれなかった自分自身を育てようとした。
 だからこそ、泣き叫ぶ子どもに向き合うことができなかった。人目を晒すことは耐え難かった。母として不十分な自分を人に伝えられず、助けを呼べなかった。


 平成23年度の母子家庭の平均年間就労収入は181万円だそうです(厚生労働省「平成23年度全国母子世帯等調査」)。しかも、その多くは非正規雇用なのです。著者が指摘するように、いつ失業するかわからない、離婚が貧困につながるきびしい現実があります。

『マザーズ』や『ハピネス』が描いているような母であることの孤独。それは、幼い頃にネグレクトされた心の記憶をもっている母親にとって、よけい深刻なのではないでしょうか。孤独に苛まれるなかで、残酷な過去が頭をもたげることは充分あり得るはずです。私たちが忘れてはならないのは、虐待の世代連鎖は悲劇にさらに悲劇を重ねるものだということです。この事件には、「鬼母」「身勝手」「できちゃった婚の報い」などというマスコミやネットの短絡的な見方では捉えきれない問題が伏在していることはたしかでしょう。

裁判は、マスコミやネットと同じ視点に立つ裁判員裁判で懲役30年の判決が下され、上級審への控訴や上告も却下されて、刑が確定しました。しかし、彼女は今でも「殺意」を否定しているそうです。

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2013.10.04 Fri l 本・文芸 l top ▲