
桐野夏生の新作『だから荒野』を読みました。この小説については、ネットでは「酷評」と言ってもいいような低い評価しか見当たりません。私は、なんとかネットとは違う感想を書きたいと思って読みましたが、残念ながらネットと同じような感想しか持てませんでした。
どうしてこんな中途半端でつまらない小説になったんだろう、と逆に考えてしまいました。桐野は、以前、あの『OUT』が誕生したのは、編集者に理不尽とも言えるほどダメ出しされ鍛えられたからだというような話をしていましたが、この『だから荒野』は毎日新聞に連載された新聞小説ですので、編集者のきびしい目が届かず、タガがゆるんだ面もあるのかもしれません。
主人公の朋美は46才で、東京近郊のマンションに住む専業主婦です。朋美の家庭は、ハウジングメーカーに勤める夫と、大学生と高校生の二人の息子の4人家族です。でも、自分のことしか考えてない、デリカシーの欠片もない夫と息子たち。
朋美の46才の誕生日の夜、新宿のイタリアンレストランに食事に行った際、彼らのあまりの身勝手さについに堪忍袋の緒が切れた朋美は、突然、ひとり店を飛び出し、そのまま愛車のティアナに乗って家出をするのでした。
仕事も持たず、家庭という小さな箱の中で生きてきた自分は、母親失格だの主婦失格だの言われる度に、負い目を感じて首を竦めていなかったか、臆病なカメのように。何も気にする必要などなかった。堂々と生きていればよかったのだ。
朋美は、ふと、結婚前につきあっていた”彼”が住んでいる九州の長崎に行ってみようと思うのでした。
一方、妻に家出をされた夫の浩光が心配するのは、妻のことより、車に乗せたままになっているゴルフバッグとポーチのなかに入っている紙片です。というのも、その紙片には、行きつけのゴルフ練習場で知り合った人妻の住所と携帯番号が書いてあるからです。近日中に行われるコンペで、浩光は、その人妻を送迎する約束をしていたので、ゴルフバッグと連絡先の紙片がないと困るのでした。
朋美が家出をしても、誰ひとり心配する者もおらず、ただ「勝手だ」「無責任だ」と非難するだけの家族。
途中の高速道路でティアナを乗り逃げされた朋美が、ヒッチハイクで出会ったのは、長崎で原爆の語り部をしている老人でした。でも、ここから小説は牽強付会さと説教臭が目立つようになります。長崎の”彼”もどこかに行ってしまい、最後にとってつけたようにチラッと出てくるだけです。
そして、最終的には、元の鞘に収まるような話の展開になるのですが、これじゃ安っぽいテレビドラマと同じじゃないかと思いました。『ハピネス』とこの作品の落差には、ネットならずとも戸惑うばかりです。
私は、てっきり昔の”彼”と再会して、焼けぼっくいに火が付き、道ならぬ恋がはじまるのではないかと思っていましたので、原爆の語り部の登場は唐突感が否めませんでした。しかも、彼の口から出るのは、ありきたりで陳腐なことばばかりです。原爆の語り部について、作者は、東日本大震災と福島第一原発の事故に触発されたからだというようなことを新聞のインタビューで語っていましが、小説を読む限り、触発のされ方が間違っているのではないかと思いました。
話が横にそれますが、それは、園遊会での行為が問題になっている山本太郎なども同様です。どうして「天皇直訴」なのかと思わざるをえません。
与野党やマスコミの「政治利用」という批判に対しては、「主権回復の日」や「オリンピック招致」の「政治利用」を問題にしないで山本太郎の行為だけを問題にするのは、公平さを欠くのではないかという意見がありますが、たしかにそのとおりで、ここぞとばかりに山本太郎を叩く光景には、まずバッシングありきの薄汚れた思惑がミエミエです。
しかし、山本太郎の行為が「政治利用」ではないのかと言えば、それも無理があるように思います。国会議員が公的な問題に関する内容の手紙を天皇に直接渡すという行為自体は、誰がどう考えても政治的な行為以外のなにものでもないでしょう。
私は、山本太郎の行為に、彼の”危うさ”を見た気がしました。それは、山本太郎に限った話ではないのです。反原発運動の内部にも、あるいは三宅洋平などにも見られるものです。また私たちも、「反原発」という大義のために、あえてそれに目をつむっていたところもあったのです。
「原発事故によって奇形な子どもがどんどん生まれている」「目が見えなくなったとか白血病で死にましたとかいう話がどんどん出ている」、こういった「カルト」と言われても仕方ないようなもの言いが、「反原発」運動のなかでまことしやかに流通しているのは事実でしょう。もちろん、原発事故の放射能汚染による健康被害は、決して看過できない重大な問題ですし、原発事故の不条理を告発しつづけることは大事です。でも、それがどうしてこんなカルトの妄想のような話になるのか。
「絶対的な正義」なんてないのです。そこには必ずなんらかの留保がなければなりません。「絶対的な正義」をふりかざす問答無用な作風が、「反原発」のなかにも生まれているのは否定できないのではないでしょうか。そして、そういった作風と「天皇直訴」がつながっているように思えてならないのです。
『だから荒野』に忽然と登場した原爆の語り部も、そんな”危うい”解釈と無縁ではないように思います。考えてみれば、『だから荒野』は、日常に不満をもつ主婦が、ある日突然、日常に反旗を翻して旅に出る話なのです。それは、あくまで一時的に日常から非日常へと旅に出る話にすぎません。別に片道切符で出奔する話ではないのです。なのに、どうして原爆の語り部なのか。そこあるのは、プロレタリア文学と同じような観念の操作と、それによってもたされるプロットの破綻です。
私は、昔の”彼”とやけぼっくいに火が付いたほうが、(それはそれで凡庸な小説ではありますが)よほど面白い小説になったように思います。「政治の幅は生活の幅より狭い」と言ったのは埴谷雄高ですが、言うまでもなく人間というのは、政治ではなく生活の幅のなかで生きているのです。「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚」(坂口安吾・『続堕落論』)なのです。政治的なイデオロギーを人間より上位にもっていくプロレタリア文学が、人間を描けないのは理の当然なのです。
本の表紙にもあるように、朋美が家を出てティアナのハンドルを握り、高速道路を西に向けて走らせていたとき、彼女がフロントガラス越しに見た風景は、こんなつまらないものだったのか。そう思うと、がっかりせざるをえないのでした。