高橋源一郎氏による今月の朝日新聞の「論壇時評」(暗い未来「考えないこと」こそ罪)は、示唆に富んだ内容でした。

私は、高橋氏の文章を読むにつけ、地方から若者がとどめもなく流出することと、「朝鮮人は死ね」というようなヘイトスピーチがネットだけでなく街頭にまで溢出していることには、関連があるような気がしました。

私自身も地方の出身なので、田舎を出て行く若者の気持は痛いほどよくわかります。よくマスコミや識者は、情報化社会(IT社会)になれば、日本のどこに居ても情報が手に入るので、別に都会で生活する必要はないというような言い方をしますが、むしろそれは逆でしょう。

若者たちが求めるのは、情報ではなく、その情報が映し出す現実なのです。しかも、今の若者たちが求めている現実は、ボードリヤールの言う「ハイパーリアル」な現実とも言えるものです。

今の若者たちにとって、「ハイパーリアル」な現実こそ「ここではないどこか」なのです。それは、どんどんものを買え、お金がなくてもものを買えというような過剰な消費生活と表裏一体なものです。また、それは、高橋氏が言及する『なんとなく、クリスタル』のときからそうであったように、なにがホンモノでなにがニセモノか、なにがオリジナルでなにがコピーかわからないような空虚なものでもあります。

一方で、高橋氏が指摘するように、「都市に若者たちを受け入れる能力は、もうなく、『使い捨て』られる若者たちには子どもを生み育てる余裕がない」という、ハイパーではないリアルな現実もあります。「ハイパーリアル」な空虚な現実と寄る辺ない生のリアルな現実。その狭間で「朝鮮人は死ね」というようなヘイトスピーチが生まれ、それを支える「凡庸な悪」が私たちの間に広がっているのはないか。

「凡庸な悪」というのは、ユダヤ人虐殺(ホロコースト)を直接指揮したナチスの親衛隊のアドルフ・アイヒマンについて、アメリカの哲学者ハンナ・アーレントが語ったことばだそうですが、高橋氏は、つぎのように書いていました。

アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴し、彼の罪は「考えない」ことにあると結論づけた。彼は虐殺を知りながら、それが自分の仕事であるからと、それ以上のことを考えようとはしなかった。そこでは、「考えない」ことこそが罪なのである。


つづけて高橋氏は、こう言います。

 わたしたちは、原子力発電の意味について、あるいは、高齢化や人口減少について考えていただろうか。そこになにか問題があることに薄々気づきながら、日々の暮らしに目を奪われ、それがどんな未来に繋(つな)がるのかを「考えない」でいたのではないだろうか。だとするなら、わたしたちもまた「凡庸な悪」の担い手のひとりなのかもしれないのだ。


ヘイトなナショナリズムを煽り、自分たちに反対する人間に「左翼」というレッテルを貼り、デモを「テロ」と断じる。そんなネトウヨのような今の政権を見ると、まさに情報化社会の刹那的で二律背反的な現実とファシズム(全体主義)は背中合わせなのだということを痛感させられます。

3.11でなにか変わったのか。「きずな」とか「パワー」とか「勇気」とかいった空疎なことばをただふりまわしただけで、私たちはなにも変ってないのではないか。そして、そんな弛緩した日常のなかに「凡庸な悪」が潜んでいるのではないか。

ナチスの蛮行やボスニア・ヘルツェゴビナやコソボの民族対立(民族憎悪)に対して、「人間の愚かさ」を口にすることはできるけど、それを自分たちの民族憎悪にむすびつけて考えることはできないのです。「未来を考える」ことができないというのは、そういった想像力をはたらかせることができないということではないでしょうか。
2013.12.01 Sun l 社会・メディア l top ▲