とうとうと言うべきか、やっぱりと言うべきか、特定秘密保護法が成立しました。これで、同法は、今月中に公布され、公布から1年以内に施行されることになります。

ツワネ原則」の採択を主導した米国の「オープン・ソサエティー財団」の上級顧問で、元米政府高官のモートン・ハルペリン氏は、特定秘密保護法について、「21世紀に民主国家で検討されたもので最悪レベルのもの」と強く批判した(朝日新聞デジタルの記事より)そうですが、この「21世紀に民主国家で検討されたもので最悪レベルの」法律によって、日本の社会が大きく変わるのは間違いないでしょう。もっとも、今までもことあるごとに「戦前に逆戻りだ」とか「ファッショの時代が到来する」とか散々言われてきましたので、今さら言ってもオオカミ少年のホラ話のようにしか聞こえないのかもしれませんが。

あるニュース番組の解説者が、慎重審議を求める世論の声を無視して、与党がここまで強硬姿勢をとったのは、あと3年選挙がないのでそれまでに国民は忘れるだろうとタカを括っているからだと言ってましたが、さもありなんと思いました。彼らの期待どおり、国民は喉元過ぎれば熱さも忘れることでしょう。それも今まで散々くり返されてきたことです。『原発ホワイトアウト』が書いているように、それは「日本人の宿痾」とも言うべきものなのです。

これからネットに限らず、「反日だ」「(韓国や中国の)スパイだ」「テロ行為だ」「そんなにこの国が嫌なら出て行け」というような声がますます大きくなっていくことでしょう。この法律は「クーデターと同じだ」と言った人がいましたが、それが決してオーバーな話ではないことがいづれはっきりするのではないでしょうか。「つぎの選挙で民意を示そう」というようなもの言いも、なんだかいつもの気休めのようにしか聞こえないのです。

「尖閣」や「竹島」は、権力者にとって文字通り”打ち出の小槌”のようなものでしょう。「尖閣」や「竹島」でナショナリズムを煽れば、どんな法律でもどんな政策でも可能なのです。特定秘密保護法はまだ入り口で、これから「尖閣」や「竹島」を盾に本格的な翼賛政治と”右旋回”がはじまるのではないでしょう。その意味では、ヘイトスピーチと特定秘密保護法はつながっているのだと思います。にもかかわらず、「つぎの選挙で民意を示そう」なんて能天気なことを言っているだけでホントにいいのかと言いたいのです。

堤清二氏が亡くなったことに関連して、たまたま辻井喬(堤清二)氏と上野千鶴子氏の対談『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)を読み返していたのですが、そのなかにつぎのような発言がありました。

辻井 (略)「九条の会」で、「伝統やナショナリズムのアレルギーを解除しなさい。そうしなければ、その体質を逆に改憲派に利用されてしまいます。その危険性がいま時々刻々と進んでいますよ」と、くり返し述べています。
上野 はい、それはおっしゃるとおりです。そのアレルギーが強すぎるために、公共性の理念をナショナリズムの名のもとに、右に全部持っていかれてしまいました。


また、内田樹氏は、Twitterでつぎのようなエピソードを紹介していました。

(略)『街場の中国論』で中南海は何を考えているのかあれこれ忖度したら、公安が僕のところに来ましたよ。なんで中国共産党の内部事情を知ってるんだって。毎日新聞に書いてあることを組み合わせるとそれくらいのことはわかりますと答えましたけど。


中国共産党の内部事情を本に書いただけで公安の刑事が訪ねてくる。一般の国民は、そんなこの国の現状をあまりにも知らなすぎるのです。しかも、これからはそういったことが大手をふってまかりとおるようになるのでしょう。

一方、特定秘密保護法は、そういった「治安立法」の側面だけでなく、アメリカの要請によって作成された経緯からもわかるように、TPPなどと同じように「日本を、取り戻す。」(自民党のポスター)のではない「日本を、売り渡す。」側面があることも忘れてはなりません。「情報の共有」というのは、とどのつまりそういうことでしょう。

しかし、60年安保や70年安保のときと同じように、今回も民族主義を標榜する右派を先頭に、みんなこぞって”アメリカ世”に拝跪したのでした。そこにあるのは、産経新聞や読売新聞や新潮や文春が体現する対米従属愛国主義とも言うべき偏奇な”戦後的光景”そのものです(それこそが「戦後レジューム」という言うべきでしょう)。今回も「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理が見事に示されているように思います。

私は、ネットに掲載されていたつぎのことばが目にとまりました。

これは、アウシュビッツから生還したイタリアの作家・プリモ・レーヴィのことばだそうです。法案成立を受けて彼のことばを引用している人がいたのです。

それはヨーロッパで起こった。信じがたいことに、ワイマール共和国の活発な文化的繁栄を経験したばかりの、文化的国民全体が、今日では笑いを誘うような道化師に盲従したのである。だがアドルフ・ヒトラーは破局に至まで、服従と喝采を得ていた。これは一度起きた出来事であるから、又起こる可能性がある。これが私たちが言いたいことの核心である。
(プリモ・レーヴィ・『溺れる者と救われるもの』より)


誰がデマゴギーをふりかざし旗を振ったのか。誰がおべんちゃらを言って媚へつらったのか。誰が沈黙して見て見ぬふりをしたのか。私は、せめてそれくらいはしっかりと目に焼き付けておきたいと思いました。


2013.12.07 Sat l 社会・メディア l top ▲