ヒットラー


特定秘密保護法が今日公布されました。これで今日から1年以内に施行されることが決定しました。

ドイツ思想が専門の三島憲一教授(大阪大学名誉教授)は、以前、朝日新聞(2013年8月18日「ニュースの本棚」)に「民主主義は意外と脆い」と題して、ワイマール憲法下でヒットラーが全権委任法を公布し、「世界で最も民主的な憲法」と言われたワイマール憲法を無効化した当時の状況を書いていましたが、あらためてそれを読むと、今のこの国の状況とよく似ているように思えてなりません。

第一次世界大戦の敗戦によってドイツ帝国が崩壊したことに伴い生まれたワイマール憲法は、「先進大国で最初に男女平等の選挙権を導入」するなど、画期的な憲法でした。しかし、現実の政治は、今の日本と同じような小党乱立で、いわゆる「決められない政治」の状況にありました。

そこでヒットラーが登場するのですが、ヒットラーは「選挙で選らばれた」のではありません。大統領選挙では対立候補のヒンデンブルクに敗れています。また、ナチス党も総選挙では第一党を確保したものの、絶対多数を獲得していませんでした。しかし、選挙後の組閣もできないような混乱のなかで、ヒンデンブルク大統領は「仕方なく」第一党の党首であるヒットラーを首相に指名したのでした。

そうやって民主的な手続きで首相になったヒットラーは、首相になると国会議事堂放火事件や共産党の国会議員たちの拘束など、さまざまな謀略を駆使します。そして、テロの脅威を煽った上で、全権委任法を国会に提出して全権を掌握するのでした。その全権委任法にしても、共産党議員の逮捕拘束はあったものの、反対したのは社会民主党だけで、国会で過半数の賛成を得て一応合法的に成立しているのです。

全権委任法というのは、立法権を国会から政府に委譲する法律ですが、それは、なにが「特定秘密」なのかを国会に開示する権限が「特定秘密」を指定した行政機関の長にあるとする特定秘密保護法の考えと通じるものがあります。つまり、特定秘密保護法は、ヒットラーのときと同じように、国会が形骸化される道を開くものと言えます。あとは権限を手に入れた官僚の胸三寸なのです。

一方、ヒットラーの登場をもたらした思想的な萌芽が、実はワイマール憲法のなかにあったという指摘もあります。現代ドイツ史の重鎮ハンス・モムゼンが、『ヴァイマール共和国史』という著書のなかで、そう指摘しているそうです。三島教授は、つぎのように書いていました。

 この憲法は帝政時代を懐かしむ旧勢力との妥協の産物でもあった。社会民主党の初代大統領エーベルトですら「自由はしっかりした国家秩序のなかでのみ発展できる」と強調した。この発言をモムゼンは批判する。国家は国民と別に存在しており、国民は国家理性に服すべしという上からの目線の秩序思考が潜んでいるというのだ。


三島教授は、「ヒットラーにいたる道は必然ではなかった、多くの時点で別の可能性があった」と書いていました。「憲法の民主的な側面を生かすことはできたはずだ」と。にもかかわらず、民主的な憲法の下でヒットラーの台頭を許してしまったのです。

民主主義は意外と脆いという認識こそ戦後西ドイツの基盤となった。それこそ、ワイマール体制の崩壊から現代の民主制が学ぶ教訓であろう。


今の日本にその「教訓」が生かされているとはとても思えません。それどころか、閣僚や政権与党の幹部のなかには、ヒットラーと同盟を組んだ戦前の日本をなつかしむような思想の持ち主さえいるのです。

マスコミがさかんに喧伝していた「決められない政治」「国会のねじれ」が解消された結果が、これです。このあとには、集団的自衛権の行使や共謀罪の新設など、ナチスと同じように民主的な憲法を空洞化する政策が目白押しです。

しかし、考えてみれば、「決められない政治」や「国会のねじれ」は議会制民主主義の特質であり、それだけ民主主義が機能していることの証しと言えなくもないのです。でも、そういった理性的な意見は封じられ、政治的停滞をもたらす”負の根源”のようにマスコミは言い立てたのでした。その結果、1930年代初頭のヒットラーが台頭する時代に国民の間に蔓延した、議会制民主主義に対する失望とよく似た状況が現出したのでした。

反対派も同様です。「次の選挙で民意を示そう」というようなおためごかしの常套句や、反対運動を政党党派の宣伝の場のようにしか考えてない「左派」特有のセクト主義などを見るにつけ、本当に危機感をもっているのだろうかと思ってしまいます。そういった反対派のテイタラクもまた、ヒットラー登場前夜のドイツとよく似ているのでした。
2013.12.13 Fri l 社会・メディア l top ▲