「デミトロフ」といっても、チョコレートやケーキの名前ではない。ましてや「テルミドール」のような料理でもない。東欧ブルガリアの政治家である。私などの老輩には、デミトロフは「獅子吼」という言葉とともに思い起こされる。獅子吼といえばデミトロフである。
 ゲオルギー・デミトロフは、1933年2月のドイツ「国会議事堂放火事件」の容疑者として逮捕された。が、ナチスの共産党弾圧を引き出すための、自作自演のでっち上げだった。ナチスの法廷に引き出されたデミトロフは、徹底的に陰謀を論証して、翌年には無罪を勝ち取っている。
 しかし、名前が記憶されているのは、国会放火事件によってではない。その二年後に行われた、「コミンテルン大会」での演説によってである。彼は独善的で公式的、現実には全く通用しない、排他主義的な同志たちを批判、大胆な反ファッショ統一戦線の結成を呼びかけた。ナチスと対抗するための、多様で広範な、民主主義のための共同行動を熱烈に訴えた、その情景が「獅子吼」として語り継がれている。
 戦争に向かおうとしている、いまのこの危機的な状況にもかかわらず、広く手を結んで共同行動に立ち上がらず、あれこれ批判を繰り返している人たちに訴えたい。いったい敵は誰なのか、と。


これは、1月28日の東京新聞「本音のコラム」に掲載されたルポライター・鎌田慧氏の文章です。今回の東京都知事選挙で、「脱原発候補の一本化」にこだわった鎌田氏が、デミトロフの例をあげて批判しているのは日本共産党です。

東京都知事選挙は、大方の予想どおり、自公と連合(連合東京の会長は東電労組出身)が推薦する舛添要一氏が圧勝して当選しました。脱原発派は惨敗と言ってもいいでしょう。

しかし、なかには惨敗と思ってない人たちもいるようです。ある週刊誌によれば、共産党は、宇都宮候補が細川候補に勝ち次点に入るのを目標に党をあげて支援していたそうです。私などは、当選しなければ2位だろうが3位だろうが同じじゃないか、と思うのですが、共産党のなかでは同じではないのでしょう。

実際に、選挙の後半になると、都内の私鉄の駅前では共産党の都議会議員や区議会議員たちが毎朝、辻立ちして、宇都宮候補への投票を呼び掛けていて、共産党の熱の入れようが半端ではないことがよくわかりました。でも、それはあくまで次点(2位)を目標にしたものにすぎなかったです。

私は、それを見て、共産党がやっているのは選挙運動ではなく、選挙を利用した党勢拡大運動ではないのかと思いました。

共産党は、今回の選挙の結果についても、宇都宮候補は「大健闘」して「安倍政権を追いつめた」とかなんとかいつものように自画自賛して締めくくるのでしょう。これが共産党の独善主義と言われるものです。そこにあるのは、古い古い政治の姿です。

一方で、安倍首相の盟友の百田尚樹氏が応援した核武装論者の田母神としお候補が、組織も政党の応援もないなかで61万もの票を獲得したのでした。これこそ「大健闘」と言っていいでしょう。この事実を衝撃をもって受けとめている人は、果たしてどれだけいるでしょうか。もう右も左も(もちろん新右翼も新左翼も)「終わった」のです。歴史的に見てもその存在価値はなくなったのです。彼らの党勢拡大なんてもはやなんの意味もないのです。

今回の選挙では、党派政治の陳腐さ愚劣さがあらためてはっきりしたのではないでしょうか。そして、脱原発デモのエネルギーを野田首相(当時)との面会でガス抜きしたのと同様、脱原発派は、人々の脱原発の思いをこのような古い党派政治の鋳型にはめることしかできなかったのです。それは、「一本化」以前の問題だと言えます。脱原発がそういった既成の政治に乗っかっている限り、原水爆禁止運動と同じ運命をたどるのは自明のような気がします。「健闘した」「脱原発の声は届いた」なんておためごかしに自画自賛するよりは、惨敗を惨敗として認めるほうがよほど意義があるように思います。今、脱原発派に必要なのは、徹底した敗北感と失望感ではないでしょうか。
2014.02.10 Mon l 社会・メディア l top ▲