
第150回芥川賞の受賞作・小山田浩子の「穴」(文藝春秋3月号掲載)を読みました。
どれがホンモノでどれがニセモノか、どれがホントでどれがウソか、どれが現実でどれが現実ではないのか、そんな虚実皮膜の日常に私たちは生きています。意味不明なのっぺらぼうとした世界。この小説でも、そんな世界が作者独特の切り口で描かれていました。
主人公の「私」は、SNSでもしているのか、暇さえあればいつも携帯電話の画面を見ながら激しく指を動かしている夫とふたり暮らしです。そして、夫が夫の実家と同じ土地にある営業所に転勤になったことで、実家の隣にある借家に住むことになるのでした。家賃は5万2千円ですが、夫の実家の持ち物であるために、タダになりました。転勤に伴い、非正規雇用の仕事を辞めた「私」にとっては、それは「ありがたい」話でした。
引越しの日はあいにく大雨でしたが、翌日は例年になく早く梅雨明けが宣言され本格的な夏が到来しました。窓を開けると蝉の声が響く田舎の夏。そこから奇妙な出来事がはじまります。
仕事に出ている姑から電話がかかってきて、日にちを勘違いして払い込むのを忘れてしまったお金の払い込みを頼まれます。しかし、姑が用意した払込票と現金をコンビニに持っていくと、支払金額は7万4千円なのに現金は5万円しかありません。わざと忘れたのか、それとも単なる勘違いなのか。訝しみながらも差額の2万4千円を立て替え、そのことを姑には言えないままなのでした。
しかも、コンビニ行く途中、「私」は大きな獣に遭遇します。「とにかく真っ黒で、おそらく毛は硬そうで、中天に太陽があるせいでほとんど影がなく、そのほとんどない影ごと体であるかのように、それはトコトコと先を急いでいた」のでした。しかし、誰も「私」と獣のことは見ていません。その獣に先導されるように、私は川原に降りて行きます。と、不意に「私」は、「すとんと」穴に落ちたのでした。
また、ある日、「私」は、実家の裏にプレハブ小屋があることに気付きます。しかも、そこには夫の兄、つまり義兄だという男性が住んでいました。もちろん、義兄がいるなんて初耳です。義兄は、自分のことをヒキコモリかニートのようなもので、もう20年その小屋でひとり暮らしをしていると言うのです。義兄は、「私」が穴に落ちたことを話すと、「不思議の国のアリス」になぞらえてヤユするのでした。義兄は、「私」をさらに奇妙な世界に連れ出します。ホントに義兄なのか。またしても訝しみながら「私」は、義兄が先導する世界で不思議な体験をするのでした。
みんなが寝静まった深夜、認知症の義祖父が外に出たことに気づいた「私」は、義祖父のあとを追いかけます。すると、義祖父は川原に降りて行き、穴に入るのでした。私も別の穴に入ります。私の穴のなかには例の大きな獣が身をひそめていました。ところが、その夜のことが原因で、義祖父は肺炎になり、あっという間に亡くなります。そして、義祖父の死をきっかけに、義兄も大きな獣も、遠い昔の出来事だったかのように姿を消してしまったのでした。
「(略)ま、皆さんはそんなものに興味がないんだろう。見えてないのかもしれない。大体いちいちその辺を歩いている動物だの飛んでいる蝉だの落っこちているアイスのかすだの引きこもりの男だのを見ますか。見ないでしょう。基本的にみんな見ないんですよ、見たくないものは見ない。」義兄のこのことばに、この小説の真髄が語られているように思います。作者はラテンアメリカの文学に影響を受けたそうですが、たしかに話そのものは、昔ばなし(民話)の”異郷訪問譚”や”冥界訪問譚”のような感じがしないでもありません。それが非正規雇用や携帯電話やインターネットやコンビニや通販などの現代的な風景と対置して描かれているのでした。
私たちが生きるこの日常を書きことばの制約のなかで描くとすれば、こんな虚実入り混じったような手法でしか描けないのかもしれません。このように意味をはく奪しなければ見えてこない世界があるのではないか。私たち自身、たとえばふとしたことで疑心暗鬼にとらわれたりすると、その途端に世界が奇妙にゆがんで見えてくるのはよくあることです。私たちは、世事にわずらわされながら、一方でそうやって意味不明な世界で生きているのです。でも、それは無視できないもうひとつの世界です。
いろんな場面で流れている蝉の声や自分の目の前にある微細な世界を描写する箇所などに作者の感受性が見てとれますが、ただ、この小説で使われていることばは総じて平板です。その意味では、川上未映子が登場したときのような衝撃はありませんが、でも味わいのある読後の余韻の残る小説だと思いました。