
先日の朝日新聞に「『嫌中憎韓』が出版界のトレンドになりつつある」という記事が出ていましたが、たしかに電車に乗ると、戦争前夜と見まがうようなオドロオドロしい見出しが躍る週刊誌の中吊り広告が目に飛び込んできます。さらに書店に行けば、朝日の記事に書いているように、入ってすぐのいちばん目立つコーナーに、ヘイトなナショナリズムを煽るような本がずらりと並んでいるのを目にすることも多くなりました。
なんだか既存の紙メディアとネットのセカンドメディアとの垣根がなくなった感じさえしますが、これこそ大塚英志の言う「旧メディのネット世論への迎合」と言うべきかもしれません。
『ネットと愛国』の著者の安田浩一氏は、『紙の爆弾』3月号(鹿砦社)のインタビュー記事(「大衆メディまで拡大する新たな『嫌中韓』の潮流」)で、嫌中嫌韓の記事について、週刊誌の編集者や記者たちもうんざりしているけど、でも、やめるにやめられない事情があると言っていました。
ひとつは、嫌中嫌韓の記事に「そこそこの需要がある」からです。もうひとつは、記事自体が「コストをかけずに読者を惹くことができる」からです。つまり、ネットや新聞で材料を拾ってくればいいので、お手軽に記事ができるのです。
ただ、安田氏は、そうやってコストも手間もかけずに記事を作っていたら、取材力が落ちて、雑誌ジャーナリズムの生命であるスキャンダルを追うことができなくなり、結局は、読者離れを加速させることになるのではないかと懸念していました。
一方、若手の批評家の村上裕一氏は、新著『ネトウヨ化する日本 暴走する共感とネット時代の「新中間大衆」』(角川EPUB選書)のなかで、この社会をおおいつつある「ネトウヨ現象」について、それは「ネトウヨという人間が存在するというよりも、情報環境の進化に伴い、『共感主義』が人々の行動形式に組み込まれた結果、人間がネトウヨ的な激しい動きに巻き込まれやすくなったということを意味」しているのだと書いていました。そして、その原動力になっているのが、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で指摘した「セカイ系決断主義」だと言うのです。
村上氏は、実際に見たり経験したことでなくても、ネットを通じて得た情報は、あたかも実際に見たり経験したものであるかのごとく「臨場感」を覚え「共感」しやすいと言ってました。たしかに新聞やテレビなどの従来のメディアと違って、ネットの場合、目の前に表示される情報が”親近感”をもって受けとめられる傾向があるのは事実です。そもそもクリックする、あるいはタップするという指先の操作には、既に情報を選択するという意志がはたらいているのですから、最初から「共感」を求めていると言えなくもないのです。
ネトウヨ化には、サンプルになる知識が致命的に不足しているため、あたかもネットで「真実」を発見したかのごとく思い込む「ネットがすべて」「ネットこそ真実」という”オタク化”&”カルト化”の問題もありますが、もうひとつ、デバイスの機能が必然的に「共感主義」を招来するという側面も見逃すことができないのです。それがネットの特徴でもあります。
その結果、「情弱」な人々の「セカイ系決断主義」は、さらなる「暴走」へとエスカレートしかねないのです。
ネットの存在しなかった世界では、いかなる思想・文学運動も旗を振るのは人間でなければなりませんでした。しかしながら、今やその旗振りは「匿名の誰か」ないしはネットの無意識が担うようになったのです。それは、イロニーを担うイデオローグの必然的・構造的不在を意味しています。かろうじて保田(引用者注:保田與重郎)そして小林(引用者注:小林秀雄)が担保していたはずのイロニーを担うものがいなくなり、ネット時代のロマン主義は、ただその結果としての過激さだけを産出する自動的な機械になりつつあります。そこでは、どれだけそこに合流する人々が「生真面目」で「正義」漢であろうとも、かつて日本を敗戦へと追い込んだ「無責任の体系」に囚われるほかありません。
保田與重郎や小林秀雄がもっていた「屈折」は、イロニーがロマン主義に搦め捕られ「情緒に流れる」ことに抗する、いわば「留保」だったと言えます。しかし、そんな「留保」のないベタなネットの時代においては、「真面目」であったり「正義漢」であったりすればするほど「暴走」して狂信的なナショナリズムに酔い痴れるようになるのは、ある意味で当然かもしれません。そして、その先にあるのは、むき出しの”テロルとしての日常”です。
セカイ系決断主義の暴力とは、単に戦争や国家を受け入れたり称揚したりすることにあるのではなく、アイロニカルな振る舞いの中で、「あえて」やっているという建前の意図のもとに成立していた行動がいつしか「本気で」やってしまっていたというような意図の取り替えにおいてのものです。本書が保田與重郎の発言における「日本とは一つのイロニイである」を置き換えて「ネットとは一つのイロニーである」と呼んだのは、共感主義化したネット環境が、ロマン主義的イロニーの至る果てとして、即ち「あえて」であることを忘却した情動や共感の暴走として現れやすいことを示唆してのことです。
安田浩一氏は、問題なのは在特会(在日特権を許さない市民の会)よりも「在特会的な空気が蔓延しつつある」ことだと言います。「在特会に嫌悪を示しながら、それでもいまの嫌韓的な空気を充分に吸い込んで、発散したがっている層が確実に」いて、それは若者ばかりではなく、いい年した大人たちも多いと言ってました。それがいわゆるサイレントヘイト・スピーチという「空気」です。
もちろん、この反知性的な(脊髄反射的な)「共感主義』の「暴走」は、「進撃の巨人」が中国や韓国でも人気を博していることからもわかるように、日本に限った話ではありません。中国だって韓国だって同じです。ただ、私は、ソチオリンピックでのキム・ヨナに関する報道を見るにつけ、まだしも韓国の社会のほうが柔軟性を保持しているように思えてならないのです。「アンネの日記」の事件に見られるように、もしかしたら日本の社会は韓国より余裕がなく融通が利かなくなっているのではないか。
キム・ヨナのフリーでの演技に対する採点について、韓国内では例によって例の如く採点が低すぎるという声が沸騰したのですが(日本では逆に高すぎるという声が多かったのですが)、本人は「偏った判定の話が出るたびに、私より周囲の人が怒っている。私はうまく滑れたことに満足していて、何も未練はない」と述べたそうです。
また、キム・ヨナが演技している画面に「あなたはキム・ヨナではない」「あなたは大韓民国の呼吸を4分8秒間停止させた」「あなたは1人の大韓民国だ」などと大仰なキャッチコピーがかぶせられたガス会社のテレビCMに対して、ネットユーザーを中心に「典型的な全体主義志向ではないか」「スポーツ選手と国を並べて語るのは脅迫的で不愉快だ」と反発する声が出て、結局、放送中止になったそうです。
私は、こういったキム・ヨナやネットユーザーの「留保」こそ、「セカイ系決断主義」「共感主義」を対象化する知性であり見識だと思います。そして、それは、つぎのような村上氏が言う「逡巡」にも通じるものだと思います。ネトウヨ化する社会のなかでなにより大事なのは、こういった「留保」や「逡巡」ではないでしょうか。
私は、人を助けるためだったら人を傷つけてもよいなどという立場には与さない。目的が手段を正当化するという発想こそが、他者への暴力そのものなのである。もちろんそれは、人を救うことを否定しているのではない。しかしながら、人を救うというのは軽々しいことではない。それはセロサムゲームの産物ではないのだ。私たちはその営みがどのような意味を持つものかを考え続けなければならない。それは終わらない逡巡を生きるということを意味している。決断をせずに生きることは難しいが、決断の前にも決断の後にも逡巡がなくてはならない。私が文学の復活を願うのは、そのような逡巡を体験するものこそが文学だからだと思っているからだ。