奥さまは愛国

北原みのり・朴順梨共著『奥さまは愛国』(河出書房新社)を読みました。

最近、ネトウヨ化は、家庭の主婦にまで広がっているのだそうです。

ネトウヨの生みの親のひとりである(と言っていい)小林よしのり氏のブログにも、つぎのような記述がありました。

週刊現代に「妻が「ネトウヨ」になりまして」という記事が載っているが、主婦はインターネットを頻繁に見ているらしい。

そこからネトウヨになってるらしいのだ。

あの人、在日なんじゃないの?」と根拠なく他人を在日認定したり、「ネットには本当のことが全部載っているんだから。みんなマスコミはマスゴミだって言ってるのよ。」と言ったり、「安倍総理の揚げ足とる奴らは売国奴」と信じているらしい。

家に一日中いる主婦ほど、「ネトウヨ主婦」になる可能性が高いようだから、まさに「専業主婦が女のあるべき姿」という考えの陥穽がすでに如実に現われてしまっている。
小林よしのりオフィシャルwebサイト 2014.03.01


実際に、著者の朴順梨氏に話しかけてきた50代半ばの活動家の女性も、こう言っていたそうです。

(略)私に「ネット、やってます?」と聞いてきた。「あまり、やらないです」と答えると、「私は大好きなの。テレビはあまり見ないのだけど、インターネットは色々勉強になるから、はまっているのよ。うふふ」と笑っていた。


「デモの参加者の中に女性が結構いるんだけど、あの人達って『韓国人を叩き出せ!』って叫んだ後に家に帰って、子供の食事とか作っているんですかね? その二面性ってすごくないですか?」と朴氏は言ってましたが、たしかに「すごい」ことです。

殺せとか海に沈めろとか聞くに堪えないようなヘイト・スピーチの横で、薄笑いを浮かべながらあたりを睥睨している女性たち。でも、彼女たちは特別な女性ではありません。レディースでもなければヤンキーでもないのです。ましてメンヘラでもありません。家に帰ればごく普通の主婦で、愛する夫がいてかわいい子どもがいるママなのです。そのギャップをどう考えればいいのか。

著者の二人は、同じ女性としてときに重い気分になりながら、女性の愛国団体の街宣を聞きに行ったり、集まりに参加したり、あるいは活動家の女性にインタビューしたりして、ネトウヨに走る女性たちの心の底にあるものを探ろうとするのでした。

保守運動のなかで、活動仲間の男性からコナをかけられたり、セクハラまがいの行為を受けたことに怒り、仲間から離れた女性が、一方で、「もし戦時に生まれていたら、自分は慰安婦に志願する。愛する男性を命がけで支える」とTwitterでつぶやいているのを目にして、著者の朴氏は、「私の範疇をはるかに超えていた」と愕然とするのでした。

お国のために戦う兵隊に慰安婦は必要だった、日本にレディーファーストなんていらない、憲法24条の男女平等は日本の文化にそぐわない、と主張する女性たち。

北原みのり氏は、そんな愛国団体の女性に、「フェミニズムは、被害者意識が強いから嫌い」と言っていたDV被害者の女性を重ね合わせるのでした。

 強者でありたい女性たちは、フェミニズムこそ女を侮辱していると考える。「被害者面(ズラ)する」「弱者ぶる」とは、フェミニズム嫌いの女性たちがよく言うことである。そしてそれは、愛国女性たちが元「従軍慰安婦」に向ける言葉と一字一句同じだ。


それは、木嶋佳苗被告の「フェミニズム嫌い」も同じだと思います。

教科書で最も古い登場人物が女の卑弥呼だったり、最も古い天皇が女の推古天皇だったりするのはおかしい。それは中国や左翼が日本を貶めるためにつくった意図であると主張し、女性に国は治められないと「女性天皇」に反対する、そんな「女性を見下す」明治天皇の玄孫・竹田某氏に熱い視線を送る女性たち。一方で、女権の拡大を主張するフェミニストの田嶋陽子を竹田某氏と一緒になってあざ笑う女性たち。

どうしてなのか。北原みのり氏は、つぎのように言います。「だって、女であることを誇れないのなら、日本人であることをせめて誇りたくなるから。男と一緒に心おきなく田嶋陽子を笑った方が、この国で生きやすいのだと確認したいから」だと。

私は同時に、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』(東京創元社)で引用していた、つぎのようなヒットラーの『わが闘争』の一節を思い出さないわけにはいきませんでした。

弱い男を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりも支配者を愛し、自由をあたえられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じている。大衆はしばしばどうしたらよいか途方にくれ、たやすく自分たちはみすてられたものと感じる。大衆はまちがった原理もわからないので、かれらは自分たちにたいする精神的テロの厚顔無恥も、自分たちの人間的自由の悪辣な削減も理解することができない。
(日高六郎訳)


フロムは、ヒットラーはそうやって「大衆を典型的なサディズム的方法で軽蔑し『愛する』のである」と書いていました。

愛国女性たちの「愛国」は、いわば”倒錯した愛”と言えるのかもしれません。どうしてそんなにこの国の男が信じられるのかと北原氏は書いていましたが、彼女たちの根底にあるのは、フロムのことばを借用すれば、「孤独の恐怖」ではないでしょうか。そこには、『マザーズ』や『ハピネス』が描いた「母であることの孤独」も含まれているのかもしれません。その孤独がネットをとおして辿り着いた先が、ネトウヨだったのではないか。もちろん、そこにあるのは、「ネットがすべて」「ネットこそ真実」という情弱な反知性主義であり、行く着く先は「共感主義」の暴走です。

フロムが言うように、「汝みずからを知れ」という「個の確立」を求める近代社会は、逆に『自由』の名のもとに生活はあらゆる構成を失う」のです。その結果もたらされるのは、「一つは聞くこと読むことすべてにたいする懐疑主義とシニズムであり、他は権威をもって話されることはなんでも子どものように信じてしまうこと」です。フロムは、「このシニズムと単純さの結合は近代の個人にきわめて典型的なものである」と述べていましたが、いわんやネットの時代においてをやでしょう。

街頭で「慰安婦はウソつき」「売春婦のババア」「お前、チョウセン人だろ?」と男ことばで悪罵を投げつける彼女たちも、実際に対面すると上品でおっとりしておだやかな表情を見せるのだそうですが、その落差のなかに彼女たちの人知れぬ孤独が秘められているように思えてなりません。

一方で、北原氏や朴氏が言うように、彼女たちの背後に、ただステレオタイプなことばをくり返すだけのこの国のサヨクやフェミニズムが放置してきた問題が影を落としていることも、忘れてはならないでしょう。彼女たちのサヨク嫌いやフェミニズム嫌いは、まったく理由のないことではないのです。
2014.03.07 Fri l 本・文芸 l top ▲