私は、48年ぶりに釈放された袴田巌さんの姿に、ネトウヨたちが愛する「国家」とは別の「国家」の姿を見た気がしました。

再審開始と同時に刑の執行停止が決定された袴田さんを東京拘置所に迎えに行った姉の秀子さんに対して、袴田さんは「ウソだ」「袴田事件は終わった。もう帰ってくれ」と言ったそうです。袴田さんは「世界でもっとも長く服役している死刑囚」としてギネスに認定されていますが、長期にわたる独房生活と死刑執行の恐怖から精神を病んでいる袴田さんは、最近は妄想がひどくて面会もできない状態がつづいていたそうです。

袴田事件では、事件発生(1966年)から1年2ヶ月後に、突然、「すでに捜索済みであったはずの味噌工場のみそタンクの中から、犯行に使われたと思われる血染めの衣類が5点」発見され、それが迷走していた公判を方向付け、死刑判決の決定的な物的証拠になったと言われています(弁護士ドットコム)。しかし、発見された衣類は、袴田さんの身体とは合わないサイズの小さいものでしたし、1年以上も味噌樽のなかに浸かっていたにしては、衣類の変色も痛みも少ない不自然なものでした。それでも有罪率99.9%の日本の刑事裁判では死刑判決が下され、1980年最高裁で死刑が確定。以後、裁判所は、再審の請求も退けてきたのです。そして、鑑定技術の進歩によって、衣類に付着していた血痕が袴田さんのDNAとは異なるという鑑定結果が弁護側検察側双方の鑑定人から出され、ようやく今回の再審開始につながったのでした。

静岡地裁の村山浩昭裁判長は、再審開始を認める決定のなかで、「捜査機関が重要な証拠を捏造した疑いがあり、犯人と認めるには合理的疑いが残る」と述べたそうです。つまり、警察が証拠を捏造した疑いがあると言っているのです。

静岡県では、それまでも幸浦事件(1948年)・二俣事件(1950年)・小島事件(1950年)・島田事件(1954年)と、のちに無罪が確定した冤罪事件がたてつづけに起きています。それには「拷問王」と言われた静岡県警のひとりの刑事が関わっていたことが指摘されています。そして、袴田事件も「拷問王」から指導を受けた部下の刑事が捜査に関わり、冤罪を生み出した捜査手法が用いられていたと言われているのです。

実際に、警察が自白を強要するために、連日深夜まで長時間にわたる過酷な取り調べをおこなったことは、弁護側も指摘しています。「袴田巌さんを救う会」副代表の小松良郎氏(故人)は、「救う会」のサイトのなかで、つぎのような袴田さんが子供に宛てて書いた手紙を紹介していました。

「……殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒で殴った。そして、連日二人一組になり三人一組のときもあった。午前、午後、晩から一一時、引続いて午前二時まで交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった。……息子よ、……必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし、一番それをよく知っているのが警察であって、一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを。チャンはこの鉄鎖を断ち切ってお前のいる所に帰っていくよ。」(一九八三年二月八日)
無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会
http://www.h3.dion.ne.jp/~hakamada/jiken.html


一方、静岡地検は、刑の執行停止(釈放)に対して、「予想外の決定」として東京高裁に不服の申し立て(抗告)を行い、棄却されました。しかし、再審決定に対しても、31日の期限までに東京高裁に不服の申し立て(即時抗告)をおこなう方針だそうです。もし不服の申し立てが認められて再審決定が取り消されると、袴田さんは再び拘置されることになるのです。まだその可能性も残っているのです。

この検察の姿勢にあの袴田さんの姿を重ねると、私には「残酷」「非情」ということばしか思いつきません。まるでひとりの人間の人生なんてどうだっていい(それより自分たちのメンツのほうが大事だ)とでも言わんばかりです。もちろん、この検察の姿勢に、「国家の意思」が体現されているのは言うまでもありません。

私たちは、愛することを強いる「国家」が一方で、こんな「残酷」で「非情」な顔をもっているのだということを忘れてはならないでしょう。袴田さんの変わり果てた姿を見ると、「国家」は誰のものか、そんな疑問をあらためて抱かざるをえません。
2014.03.30 Sun l 社会・メディア l top ▲