昨日、このブログに「小保方さん、がんばれ」というキーワードでアクセスしてきた方がいました。

理化学研究所の調査委員会の「最終報告」に対して、小保方さんは、「驚きと憤りの気持ちでいっぱいです。改ざん、捏造と決めつけられたことは承服できない」と強く反発しているそうです。

そりゃそうでしょう。研究仲間の理研だけはわかってくれると思っていたのに、彼らも『週刊新潮』や『週刊文春』のような”私刑ジャーナリズム”に屈して、小保方さんの論文を「不正」「捏造」と決めつけ、”小保方バッシング”に与しているのですから、小保方さんにしてみれば裏切られたような気持ではないでしょうか。それが「驚きと憤りの気持」という表現になっているのだと思います。

小保方さんは、画像や論文の取り違え(コピペ)は「不正の目的も悪意もない」ミスだと言ってますが、しかし、その行為自体は、軽率のそしりは免れず、批判されても仕方ないと思います。ただ、それと研究結果は関係ないのです。「研究結果に変わりはない」と言う小保方さんのことばは、研究者として確信があるからでしょう。

ところが、”私刑ジャーナリズム”の手にかかると、そういった発言すらもバッシングの対象になり、まるで小保方さんは「気が触れた」かのような言い方をするのですが、「気が触れている」のはどっちだと言いたくなります。

実際に、理研も研究結果に対しては、これから1年かけて検証すると言っているのです。だったらどうして「捏造」と決めつけるのか。理研が出した「結論」も矛盾しています。

未知の分野に挑む科学的探究心が世人に理解されないのは、仕方ない面もあります。しかし、同じ科学者がこともあろうに俗情と結託して科学的探究心を否定するなら、それは科学の死を意味するのではないでしょうか。なにがノーベル賞だと野依理事長に言いたい。

仮にSTAP細胞が存在しなかったとしても、小保方さんの研究が否定されるものではないでしょう。結論の如何によって、その科学的探究心が問題にされるならそれは研究の自由の否定です。

この問題を受けて、政府は、理研の「特定国立研究開発法人化」を先送りにしたというニュースがありましたが、理研の「最終報告」は、そういった政治的な動きと関係があるように思えてなりません。

戦争中、軍部と結託して”鬼畜米英”を煽り、国民を戦場に駆り立てた新潮社や文藝春秋社が、今度は”鬼畜中韓”を煽り、再び戦争の旗を振っているのですが、そんな新潮や文春が一方で”小保方バッシング”に狂奔している姿は、このSTAP細胞問題の本質をよく表しているように思います。

ネットには、かのヤン・ヘンドリック・シェーンの論文捏造事件を持ち出して、それと今回の問題がいかによく似ているかというような記事(「論文捏造:STAP細胞論文から考える科学と私たちが抱える根本的問題」)もありましたが、これもバッシングに便乗したこじつけとしか思えません。「専門的なことはわからないけど」と言いながら、まるで集団ヒステリーのように、みんなで水に落ちた犬を叩いているのです。

”小保方さんバッシング”の先に見えるのは、今、この国をおおいつつある全体主義の「空気」です。

>> ”小保方さん叩き”を考えた
2014.04.03 Thu l 社会・メディア l top ▲