JR上野駅公園口


柳美里の最新作『JR上野駅公園口』(河出書房新社)を読みました。

この小説には、さまざまな声や音に混ざって、「まもなく2番線に池袋、新宿方面行きの電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください」というあの駅のアナウンスの声が、低調音のようにずっと流れています。

文芸評論家の川村湊氏は、『週刊文春』の書評で、この小説について、つぎのように書いていました。

さまざまな人々の声が聞こえてくるポリフォニック(多声的)な小説構造が示しているのは、声なき声の恨(=ハン)を聞き分けようとする作家の耳の鋭敏さなのだ。そこには、戦後というより近代社会そのもののノイズが聞こえる。

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/3921

この小説の主人公は、上野公園でホームレス生活を送っている男です。そして、男の時空を超えたモノローグ(独白)によって、物語が語られていくのでした。

1933年生まれの男は、今上天皇と同じ歳です。さらに、ひとり息子も皇太子殿下と同じ歳で、誕生日も同じでした。「浩一」という名前も、皇太子殿下から一字をもらって名付けたのでした。

男は、福島の相馬生まれです。当時の浜通りには、「東京電力の原子力発電所や東北電力の火力発電所」も、「日立電子やデルモンテの工場もなかった」ので、微々たる田んぼしか持ってない農家の長男である男は、国民学校を卒業すると、出稼ぎに出て生活の糧を得ることを余議なくされるのでした。男の出稼ぎは、結婚して子どもができてからも、家族を養うためにつづきます。

そんななか、ひとり息子の浩一が、21歳のときに東京のアパートで突然死します。さらに、60歳をすぎて出稼ぎをやめ福島に戻った男が、出稼ぎのためにほとんど一緒に生活することのなかった妻の節子と、残りの人生を「月に7万円づつの年金」でのんびりすごそうと思っていた矢先、その妻にも突然先立たされるのでした。そのとき、男は、息子が死んだときに母親から言われた「おめえはつくづく運がねぇどなあ」ということばを、あらためて噛み締めるのでした。

そして、人生に絶望した男は、故郷の福島を出奔する決意をします。自分の面倒をみてくれた孫娘の麻里に、「突然いなくなって、すいません。おじいさんは東京に行きます。この家にはもう戻りません。探さないでください。いつも、おいしい朝飯を作ってくれて、ありがとう」という書き置きを残して、常磐線で上野にやってきたのでした。それは67歳のときでした。

上野公園は、正式には「上野恩賜公園」と言って、天皇家から下賜された土地に作られた公園です。そのためか、公園には東京国立博物館・国立西洋美術館・国立科学博物館・日本学士院など芸術や学術の施設も多いため、皇族方が訪れることがよくあります。

皇族が公園を訪れる日が近くなれば、それぞれブルーシートに「特別清掃」の紙が貼られます。紙には、「○○時○○分から○○時○○分まで、現在地から移動すること」「○○時○○分から○○時○○分までの間は公園内での移動禁止」と書かれてあります。これがホームレスたちが言う「山狩り」です。

この間、彼らはブルーシートで作られた「コヤ」を畳み荷物を移動させて、皇族方から見えないところに姿を隠さなければなりません。しかも、「行幸啓」が終わっても、元の場所には立ち入り禁止の看板や柵や花壇が設置されていることがあり、必ずしも元の場所に戻れるわけではありません。「特別清掃」は、一方で、ホームレスたちを締め出す格好の口実にもなっているのでした。

高貴な血筋に生まれ、「跳んだり貪ったり彷徨ったりすることを一度も経験したことのない人生」と、社会の底辺を必死で生きてきた挙句に、なにもかも失いホームレスに零落した男の人生。

ある「山狩り」の日、男は、いつもより早く上野公園に戻ると、天皇皇后両陛下が乗ったトヨタ・センチュリーロイヤルの御料車が、目の前を通りすぎるのに出くわします。男は、御料車に向かってつぎのように独白するのでした。

 自分と天皇皇后両陛下の間を隔てるものは、一本のロープしかない。飛び出して走り寄れば、大勢の警察官たちに取り押さえられるだろうが、それでも、この姿を見てもらえるし、何か言えば聞いてもらえる。
 なにか──。
 なにを──。
 声は、空っぽだった。
 自分は、一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。
 昭和二十二年八月五日、原ノ町駅に停車したお召し列車からスーツ姿の昭和天皇が現れ、中折れ帽子のつばに手を掛けられ会釈をされた瞬間、「天皇陛下、万歳!」と叫んだ二万五千人の声──。


男は、過去にも故郷の駅で昭和天皇の姿を見たことがあったのでした。

 三十歳の時に東京に出稼ぎに行く腹を決め、東京オリンピックで使う競技場の建設工事の土方として働いた。オリンピックの競技は何一つ見なかったけれど、昭和三十九年十月十日、プレハブの六畳一間の寮の部屋でラジオから流れてきた昭和天皇の声を聞いた。

 「第十八回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピックの東京大会の開会を宣言します

 昭和三十五年二月二十三日、節子が産気付いていた時に、ラジオから流れてきたアナウンサーの声──。

 「皇太子妃殿下は、本日午後四時十五分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。御母子共にお健やかであります

 不意に、涙が込み上げた。涙を堪えようと顔中の筋肉に力を入れたが、吸う息と吐く息で肩が揺さぶられ、両手で顔を覆っていた。


御料車の窓から、「柔和としか言いようのない眼差しをこちらに向け」、手を振っている両陛下。そんな両陛下に歓声をあげて手を振りかえす人々の背後で、肩を震わせながら両手で顔を覆い泣いているホームレスの男。なんと哀切で、なんと感動的な場面なんでしょう。私は、脈絡もなく中野重治の「雨の降る品川駅」という詩を連想しました。

小説の最後は、津波におそわれ故郷の海に呑み込まれていく孫娘の麻里の姿と、そして、あの駅のアナウンスの声なのでした。

 「まもなく2番線に池袋、新宿方面行きの電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください

ホームの端に立った男が、最後に見たものはなんだったのか。

生きることのかなしみ、せつなさ、やりきれなさ。この小説にオーバーラップするのは、大震災や原発事故によって、主人公と同じように故郷を失い家を失い家族を失った人々の姿です。それは、「がんばろう、東北!」や「ひとつになろう、日本!」や「パワーをもらった」「元気をもらった」などという傲慢なことばのために存在する「被災者」とは違った人々の姿です。

「あとがき」によれば、この小説を構想しはじめたのは12年前だそうですが、しかしやはり、あの大震災や原発事故がなければ生まれえなかった作品であるのは間違いないでしょう。この小説が私たちの胸を打つのは、大震災や原発事故を直視するなかで生まれた小説でありながら、同時に生と死の普遍的な問題を私たちに問いかけているからではないでしょうか。読後、澱のようにいろんな思いが残りました。


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2014.06.16 Mon l 本・文芸 l top ▲