東京都議会におけるセクハラやじの問題で、やじを飛ばしたことを名乗り出て謝罪した(前)自民党の鈴木章浩議員が、尖閣に無断で上陸するなど党内でも有名な”右翼議員”であったことから、セクハラやじは保守特有のマッチョ(男尊女卑)思想によるものだという意見がありますが、それは皮相的な見方にすぎないように思います。

私は、この問題を考える上で、以下に紹介する中森明夫氏と高橋源一郎氏の文章が参考になると思いました。

中森明夫氏は、つぎのような文章をネットにアップしていました。

REAL-JAPAN.ORG  2014/6/17
「中央公論」掲載拒否! 中森明夫の『アナと雪の女王』独自解釈

これは、『中央公論』からの依頼で書いたものの、「掲載拒否」されボツになった原稿だそうです。『中央公論』編集部からは、雅子妃殿下と安倍首相の”お友達”の長谷川美千子氏(NHK経営委員)に言及した部分が問題になったと言われたそうです。『中央公論』は読売新聞の系列ですので、どんなかたちであれ、政権批判はタブーなのでしょう。

中森氏は、雅子妃殿下こそ『アナと雪の女王』の「雪の女王」ではないのかと言います。

 今一人、私たちの国を代表する雪の女王がいた。そう、雅子妃殿下である。小和田雅子氏は外務省の有能なキャリア官僚だった。皇太子妃となって、職業的能力は封じられる。男子のお世継ぎを産むことばかりを期待され、好奇の視線や心ないバッシング報道にさらされた。やがて心労で閉じ籠ることになる。皇太子殿下がハンスのような悪い王子だったわけではない。「雅子の人格を否定する動きがあったことも事実です」と異例の皇室内の体制批判を口にされ、妃殿下を守られた。同世代の男として私は皇太子殿下の姿勢を支持する。雅子妃は『アナと雪の女王』をご覧になったのだろうか? ぜひ、愛子様とご一緒にご覧になって、高らかに『レット・イット・ゴー』を唄っていただきたい。創立90周年を迎えたディズニーは、いわば王制なきアメリカの精神の王室である。それが“アナ雪”で大きな変化の一歩を踏み出した。我が国の皇室はどうだろう? 皇太子妃が「ありのまま」生きられないような場所に、未来があるとは思えない。


一方、高橋源一郎氏は、朝日新聞の論壇時評(「アナ雪」と天皇制 ありのままではダメですか)で、「人の一生を『籠の鳥』にするような、人権を無視した非人間的な制度の犠牲には、誰にもなってもらいたくない」から象徴天皇制に反対するという上野千鶴子氏と、「女だからという理由で」「生まれてこのかた、『お前ではダメだ』という視線を不特定多数から受け続けてきた」敬宮愛子様に深い同情を寄せる赤坂真理氏の天皇論(皇室論)をそれぞれ引き合いに出して、つぎのように書いていました。

 この二つの本(引用者注:上野千鶴子『上野千鶴子の選憲論』と赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』)からは、同じ視線が感じられる。それは、制度に内在している非人間的なものへの強い憤りと、ささやかな「声」を聞きとろうとする熱意だ。制度の是非を論じることはたやすい。けれども、彼女たちは、その中にあって呻吟(しんぎん)している「弱い」個人の内側に耳をかたむける。それは、彼女たちが、男性優位の(女性であるという理由だけで、卑劣なヤジを浴びせかけられる)この社会で、弱者の側に立たされていたからに他ならない。彼女たちは知っているのだ。誰かの自由を犠牲にして、自分たちだけが自由になることはできないと。


小和田雅子氏は、外務省に勤務していたときは、目黒区洗足の自宅から外務省までトヨタ・スターレット(?)だかで通勤していたそうです。そんな活発なキャリアウーマンだったのです。結婚するときも、外務省で経験したことを皇室のなかで生かせればというようなことを言ってました。

もちろん、女性が「『ありのまま』生きられない」のは、皇室のなかだけではありません。『アナと雪の女王』の独自の解釈から見えてくるのは、都議会のえげつないやじを生み出すこの社会のあり様です。北原みのり氏は、『木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』で、「女はとっくに白馬の王子なんて、この国にいないことを知っているのに」と書いていましたが、肝心な男たちは、未だに女は「白馬の王子」を待っている、「白馬の王子」なしでは生きられない、それが女にとって幸せな人生の一本道だ、と思い込んでいるのです。それがあのようなセクハラやじを生み出す背景になっているのではないか。

多くの男たちは、自分も東京都議会の議員たちとそう遠くないところにいることを知っているのです。セクハラやじは言わないまでも、その場にいたら自分も一緒になって笑ったはずだということはわかっているのです。セクハラやじは、なにもおやじの専売特許なんかではないのです。週末の自由が丘で、妻の代わりにベビーカーを押しているやさしい夫たちも、一枚めくれば都議会議員たちとたいして変わらないのです。

レヴィ・ストロースの「結婚=(女性)交換」説ではないですが、男のなかにはどこかに、女性に対して「ものにする(手に入れる)」という意識がはたらいているのは否定できないでしょう。そんな男たちにとって、高学歴で「生意気な女」や「結婚しない女」は、自分たちにまつろわぬ女のように思えるのではないでしょうか。まして、小保方さんや塩村議員のような女性偏差値の高い女性は、一見男に媚びを売っているように見えるので、よけい”裏切られた感”が強く、許せない気持になるのではないでしょうか。だから、ネトウヨと一緒になって、あのように人格攻撃を加えバッシングするのでしょう。そして、バッシングに使われるのは、おなじみの「ふしだらな女」「計算高い女」というフレーズ(常套句)です。そう考えれば、従来の「白馬の王子」を待つディズニー映画のイデオロギーから脱却し、「ありのまま」に生きる女性への讃歌を高らかに歌う『アナと雪の女王』に、男たちが今ひとつ乗れないのもわかる気がするのです。
2014.06.28 Sat l 社会・メディア l top ▲