憲法9条の解釈を根本から変える集団的自衛権の行使容認の閣議決定は、「戦後の安全保障政策の大転換」「専守防衛からの転換」と言われていますが、それもわずか13時間の密室での与党協議によって決定されたのです。このやり方に対して、「クーデターだ」という声もありますが、あながちオーバーだとは言えないでしょう。

今回の”解釈改憲”については、憲法学者の小林節慶応大名誉教授のつぎのことばが、正鵠を射ているように思いました。小林教授自身は改憲論者でもあるのですが、安倍政権の”解釈改憲”は、日本の憲法がどうのこうのと言う以前の問題として、法治国家のイロハから言ってもメチャクチャで、安倍政権は「錯乱している」とさえ言うのでした。

人間は神じゃないから間違いを犯す。金を返さないやつがいるから民法があり、嫌なやつを殺す人間がいるから刑法がある。絶対王政では王様は神様だったから、間違いを犯さないことになっていた。しかし、近代市民革命以降、王の地位には普通の人間が就くようになった。普通の人間であれば、間違いを犯すので、憲法が生まれたのです。この歴史的事実を無視して、立憲主義を否定するのは卑しい行為です。
(日刊ゲンダイ2014年5月19日 慶大名誉教授・小林節氏 「解釈改憲は憲法ハイジャックだ」


「法が禁じていても最高権力者がそれを無視すると決めたら無視できる、これでは人の支配じゃないですか。王様・王政じゃないですか。全くおかしいです」
(7/1「ニュースステーション」出演時の発言より)


ヒットラーも「錯乱している」と言われました。安倍首相がファシスト(カルト)と言われるゆえんです。

カルトな総理大臣が右向け右と言ったら、与党のなかでそれに異議を唱えたのは村上誠一郎議員ひとりだけで、あとはみんないっせいに右を向く。日本の民主主義がこんなに脆いものだとは思わなかったという声がありますが、それもまた、全権委任法によってワイマール憲法が失効したとき、ドイツの民主主義者たちが口にしていたのと同じセリフなのです。

一方、そのような戦後安保体制の大転換にもかかわらず、マスコミや国民は、危機感もなくずいぶんのんびりした感じです。おそらくそこには、「戦争は自衛隊がやることでオレたちには関係がない」という意識があるからではないでしょうか。つまり、「汚れ仕事は自衛隊にさせればいい」という考えです。自分たちは安全地帯から、「中国が攻めてきたらどうする」「韓国が在日を使って日本を支配しようとしている」などとカルトな妄想を吐き散らし、無責任に戦争を煽るだけなのです。

今回の閣議決定が、集団的自衛権と個別的自衛権がゴッチャになった粗雑でいい加減な議論のもとですすめられたというのは、多くの人が指摘するとおりです。ネトウヨが妄想するように、仮に中国や韓国が脅威だとしても、それは集団的自衛権の問題ではなく個別的自衛権の問題なのです。小林教授が言うように、集団的自衛権の本質は、「日本のため」ではなく、「他国のため」(同盟国のため)に派兵するということなのです。「他国のため」に戦争に加担するということなのです。その「他国」とは、言うまでもなくアメリカです。そこには「アメリカのため」は「日本のため」という”集団安全保障”のレトリックがあるからですが、要はアメリカの肩代わりをするということです。集団的自衛権は、TPPと同じ「アメリカのため」なのです。

もとより軍隊というのは、安倍首相が言うように、「国民の生命と財産を守る」ためにあるわけではないのです。軍隊は、国家の存立と秩序、つまり、”国体”を守るためにあるのです。国があっての国民というのが、軍隊の考えなのです。先の戦争でも、軍隊が守ろうとしたのは、「国民の生命と財産」なんかではありませんでした。むしろ、”国体”を守るために、国民は命を投げ出せと言ったのです。

元防衛官僚で新潟県の加茂市長の小池清彦氏は、朝日新聞のインタビュー(拡大防げず徴兵制招く 小池清彦さん)で、「集団的自衛権の行使にひとたび道を開いたら、拡大を防ぐ手立てを失うことを自覚すべきです。日本に海外派兵を求める米国の声は次第にエスカレートし、近い将来、日本人が血を流す時代が来ます。自衛隊の志願者は激減しますから、徴兵制を敷かざるを得ないでしょう」と言ってましたが、「汚れ仕事は自衛隊にさせればいい」というような卑怯な考えが通用するほど、国家は甘くないということでしょう。

それにつけても、特定秘密保護法につづき、”解釈改憲”にも手を貸した公明党は、「平和の党」を党是としていただけに、その罪はきわめて大きいと言えます。

公明党は、「綱領」で、「平和主義」と「人間主義」をつぎのように高らかに謳っています。

「戦争と革命の世紀」といわれた二十世紀は、「国家の時代」「イデオロギーの時代」でした。戦争は国家の、革命は社会主義イデオロギーの属性でしたが、今日までの歴史の教訓は、個人あっての人間あっての国家であり、イデオロギーであるのに、それが「国家のため」あるいは「イデオロギーのため」の個人や人間であるという“主客転倒”がなされ、一切の目的であるベき人間自身が手段にされ犠牲にされてきたことです。人間自身の幸福な生存こそが目的価値であり、「国家」であれ「イデオロギー」であれ「資本」であれ、人間を超えた何らかの外部価値や権威の絶対化により人間が“手段化”されることがあってはなりません。いかなる主義・主張であれ、機構や制度、科学や経済であれ、それらはすべて人間に奉仕すベきです。これが〈生命・生活・生存〉を柱とする公明党の人間主義=中道主義の本質です。


しかも、創価学会の初代会長牧口常三郎は、1943年、治安維持法・不敬罪で逮捕・投獄され、翌年獄中死しているのです。それが、公明党の「平和主義」と「人間主義」の原点だったはずです。なのにどうして、「戦争ができる国作り」の”解釈改憲”に手を貸すのか、私にはとうてい理解の外です。

容認に至る過程も不可解なものでした。公明党は、閣議決定前の6月28日に、集団的自衛権の行使容認について、47都道府県の地方代表による懇談会を都内で開いたのですが、その席では反対論が噴出したと言われています。

(略)第二次世界大戦の記憶が色濃く残る広島、長崎、沖縄をはじめ、地方側は「北から南まで慎重・反対論が100%」(出席者)となり、「地元で連立離脱を求める声がある」「『次の選挙は応援できない』と言われた」と悲鳴もあがった。

(略)地方代表は25人が発言。慎重姿勢から容認に転じた執行部に対し、「憲法解釈の変更を本当に閣議決定でやっていいのか。本来は憲法改正だ」という疑問を皮切りに、発言を求める挙手が殺到した。

<集団的自衛権>公明、地方から異論 慎重論や連立離脱も
毎日新聞 6月28日(土)21時39分配信


しかし、なぜかいつの間にか「執行部一任」になり、予定どおり行使容認の閣議決定に進んでいったのでした。私は、この党にはホントに党内民主主義は存在するのかと首をひねりたくなりました。

創価学会の広報室も、朝日新聞の取材に対して、以前の慎重論を引っ込め、「『公明党が、憲法第9条の平和主義を堅持するために努力したことは理解しています』とする見解を明らかにした」そうです(集団的自衛権「公明の努力、理解」 創価学会が見解)。まるで原理原則も見識もないかのようです。

ネットに、「安定は希望です」という去年の参院選の公明党のキャッチフレーズにひっかけて、「安倍は希望です」という公明党をヤユする書き込みがありましたが、今回の公明党のヌエのような姿勢を見るにつけ、私は、ヒットラーの全権委任法に賛成し、のちのナチスとバチカンの政教協定(コンコルダート)への道を開いたカトリック中央党を想起せざるをえません。カトリック中央党は、反共主義の立場をとるカトリックの宗教政党でした。そのため、ヒットラーによる共産党や社会民主党への弾圧を黙認し、ナチス独裁(ファシズムの台頭)に手を貸したのでした。現在、公明党=創価学会も、同じように”和製ヒットラー”の台頭に手を貸していると言えないか。

竹中労は、かつて学会系の雑誌『潮』に、「聞書・庶民烈伝 牧口常三郎とその時代」を連載した際、「どうして創価学会を擁護するのか」という批判が寄せられたことに対して、つぎのように反論していました。

 民衆に愛され、民衆に恩義を受け、おのれ自身も一個の窮民であった者が、民衆の側に立つのは当然ではないか! (略) それは、ヴ・ナロードなどという知識人のセンチメンタリズムや、原罪意識とは無縁の所為である。おちこぼれの窮民・悩める者を百万の単位で済度して、生きる力と希望とを人々にあたえる信仰に対して、小生は一切の偏見と予断を抱かない。いやむしろ、謙虚にこれを評価する。
(ちくま文庫『無頼の点鬼簿』・駅前やくざはもういない)


さらにつづけて、竹中労は、「彼らを愚民と見なし、”淫嗣邪教”のレッテルをはる輩、ことごとく外道である」と書いていました。

今の公明党=創価学会の幹部たちのなかに、この「民衆」はどう存在しているのでしょうか。それを聞きたい気がします。
2014.07.03 Thu l 社会・メディア l top ▲