ワールドカップの準決勝、ブラジルVSドイツ戦には、文字通り目を覆いたくなりました。私は、眠い目をこすりながら見ていましたが、試合開始から20分で既に勝負の興味は失せてしまいました。茫然と立ちすくむブラジルの選手たちを見ながら、どうしてサッカーにコールドゲームがないんだろう?と思いました。
ブラジルは個人の能力に頼りすぎた、そのため、ネイマールとチアゴ・シウヴァを欠いたことで、ブラジルらしいサッカーができなかった、それが敗因だ、と言われていますが、でも、南米らしい個人技のサッカーこそサッカーの醍醐味です。それだけに、ブラジルの大敗は、4年に一度の俄かサッカーファンの私にもショックでした。
それにしても、ワールドカップを見るにつけ、日本や韓国などアジアの国とヨーロッパや南米の国のサッカーに対する考え方の違いが痛感されてなりません。
ブラジルと言えば、サッカー王国で、「サッカーは絶対!」というイメージがありますが、ワールドカップの前には開催に反対する大規模なストやデモがくり広げられたことは記憶にあたらしいところです。私たちはストやデモの映像を見て意外に思ったものですが、それはサッカーに対する考え方が日本や韓国のそれと違っているからではないでしょうか。
ヨーロッパや南米では、日本や韓国のように、サッカーにおける”熱狂”が国粋主義的なナショナリズムと必ずしも結びついているわけではないのです。ヨーロッパは言わずもがなですが、南米も多くの国は移民による多民族国家ですし、それに二重国籍を認めている国も多いので、いくら国旗を掲げ国名を連呼していても、そこにあるのは日本や韓国のようなナショナリズムとは質的に違うものです。
特に南米では、サッカーは民衆のエネルギーを代弁するスポーツになっていると言えます。4年前のワールドカップのときも書きましたが、マラドーナがどうして南米の下層の民衆から熱狂的に支持されているのか、その理由を考えればよくわかります。
ブラジルが大敗した際、ダビド・ルイスは、涙ながらにこう言ったそうです。
また、会場近くに住む医師も、こう呟いたそうです。
こういったことばに、ブラジルでのサッカーの存在がよく示されているように思います。
南米のサッカーには、集団や統制(国家や民族)を一義的に考える「専制的」なアジアのサッカーからは決して生まれない自由なスタイルがあるのです。同じ”熱狂”でも、国粋主義的なそれとは違う”熱狂”があるのです。言うなれば、サッカーに国家や民族を投影する人たちと、サッカーに自分の人生を投影する人たちの違いと言えば、そう言えるのかもしれません。
サッカーは貧しい国のスポーツだと言った人がいましたが、それは言い得て妙で、貧しい小国が金持ちの大国をコテンパに打ちのめすというのは、サッカーならではです。親に車で送り迎えしてもらって練習場に通ってくるような日本の子どもが、マッチ売りの少女のように貧困から抜け出すことを夢見みながら、破れたシューズでボールを蹴っている南米の子どもたちに勝つわけがないと言った人がいましたが、そこにサッカーというスポーツの魅力があるのではないでしょうか。
その原点にあるのが、南米流の自由なスタイルのサッカーなのだと思います。だからこそ、ブラジルの大敗は残念でなりませんでした。
関連記事:
マラドーナ
ブラジルは個人の能力に頼りすぎた、そのため、ネイマールとチアゴ・シウヴァを欠いたことで、ブラジルらしいサッカーができなかった、それが敗因だ、と言われていますが、でも、南米らしい個人技のサッカーこそサッカーの醍醐味です。それだけに、ブラジルの大敗は、4年に一度の俄かサッカーファンの私にもショックでした。
それにしても、ワールドカップを見るにつけ、日本や韓国などアジアの国とヨーロッパや南米の国のサッカーに対する考え方の違いが痛感されてなりません。
ブラジルと言えば、サッカー王国で、「サッカーは絶対!」というイメージがありますが、ワールドカップの前には開催に反対する大規模なストやデモがくり広げられたことは記憶にあたらしいところです。私たちはストやデモの映像を見て意外に思ったものですが、それはサッカーに対する考え方が日本や韓国のそれと違っているからではないでしょうか。
ヨーロッパや南米では、日本や韓国のように、サッカーにおける”熱狂”が国粋主義的なナショナリズムと必ずしも結びついているわけではないのです。ヨーロッパは言わずもがなですが、南米も多くの国は移民による多民族国家ですし、それに二重国籍を認めている国も多いので、いくら国旗を掲げ国名を連呼していても、そこにあるのは日本や韓国のようなナショナリズムとは質的に違うものです。
特に南米では、サッカーは民衆のエネルギーを代弁するスポーツになっていると言えます。4年前のワールドカップのときも書きましたが、マラドーナがどうして南米の下層の民衆から熱狂的に支持されているのか、その理由を考えればよくわかります。
ブラジルが大敗した際、ダビド・ルイスは、涙ながらにこう言ったそうです。
「みんなが笑っているところが見たかった。大切な試合だということはチームの誰もが分かっていた。少なくともサッカーでは、ブラジルのみんなを幸せにしたかった」
Yahoo!ニュース
涙のダビド・ルイス、ブラジル大敗で「国民に謝る」
また、会場近くに住む医師も、こう呟いたそうです。
「言葉もない。ブラジルは楽しみが少ない国で、サッカーが数少ない楽しみなのに……」。
朝日新聞デジタル
ブラジルぼうぜん「王国の恥」 ファン同士で殴り合いも
こういったことばに、ブラジルでのサッカーの存在がよく示されているように思います。
南米のサッカーには、集団や統制(国家や民族)を一義的に考える「専制的」なアジアのサッカーからは決して生まれない自由なスタイルがあるのです。同じ”熱狂”でも、国粋主義的なそれとは違う”熱狂”があるのです。言うなれば、サッカーに国家や民族を投影する人たちと、サッカーに自分の人生を投影する人たちの違いと言えば、そう言えるのかもしれません。
サッカーは貧しい国のスポーツだと言った人がいましたが、それは言い得て妙で、貧しい小国が金持ちの大国をコテンパに打ちのめすというのは、サッカーならではです。親に車で送り迎えしてもらって練習場に通ってくるような日本の子どもが、マッチ売りの少女のように貧困から抜け出すことを夢見みながら、破れたシューズでボールを蹴っている南米の子どもたちに勝つわけがないと言った人がいましたが、そこにサッカーというスポーツの魅力があるのではないでしょうか。
その原点にあるのが、南米流の自由なスタイルのサッカーなのだと思います。だからこそ、ブラジルの大敗は残念でなりませんでした。
関連記事:
マラドーナ