漫画家で芸術家のろくでなし子氏が、自分の性器の3Dプリンタ用のデータをネットで配布したとして、「わいせつ電磁的記録頒布罪」の容疑で逮捕された事件について、北原みのり氏がブログに、「ろくでなし子さんの逮捕に思うこと」という文章をアップしていましたが、それを読むにつけ、あらためて「猥褻」とはなにかということを考えさせられました。

逮捕されて護送されるろくでなし子氏の映像がテレビのニュースで流れていましたが、ああやって事前にマスコミを待機させ、一罰百戒のみせしめにしているのでしょう。警察の狙いが、多くの人が指摘するように、模造刀や改造銃と同じように「猥褻物」における「3Dプリンタへの警告」であるのは間違いないでしょう。しかし、一方で、(警察の意図とは別に)ろくでなし子氏の逮捕によって、「猥褻」とはなにかという問題があらためて提起されたのも事実なのです。

私たちが知っている「猥褻」裁判と言えば、悪徳の栄え事件四畳半襖の下張事件愛のコリーダ事件などが有名ですが、なかでも悪徳の栄え事件と愛のコリーダ事件では、被告側は対照的な主張をしていました(四畳半襖の下張事件は、その中間に位置していたように思います)。

悪徳の栄え事件で主張されたのは、「猥褻」か「芸術」かという二項対立です。その主張の前提になっているのは、チャタレー事件で最高裁が定義した「猥褻」概念でした。言わば悪徳の栄え事件は、国家が定義する「猥褻」概念に対して修正主義的な主張がなされた裁判だったのです。

一方、愛のコリーダ事件では、「猥褻」か「芸術」かという二項対立は最初から存在しませんでした。被告側は、「猥褻」でなぜ悪い?、そもそも国家がなにが「猥褻」でなにが「猥褻」ではないなんて定義する資格があるのか?と主張したのでした。そこにあるのは、「猥褻」とはなにかという根源的(ラジカル)な問題提起でした。

自分自身のことを考えればよくわかりますが、「猥褻」というのは、環境や体験などに起因するきわめてパーソナルな欲情(性的感情)の問題です。もちろん、その背後には、歴史的社会的宗教的な「規範」によって形成された文化の問題も伏在しています。なにが「猥褻」かというのは、個人によっても社会によっても時代によっても違うのです。その意味では、悪徳の栄え事件のような「猥褻」か「芸術」かという二項対立は、不毛なものでしかありません。

北原氏は、今回の事件に対して寄せられた批判をつぎのように書いていました。

(略)今回なし子さんの作品が「猥褻」なのかどうか、逮捕は表現の自由を侵している! などという議論が起きています。そしてその点について、私に同じような種類の批判の声が届いています。北原みのりは児童ポルノ規制を容認しているのに、女性器の表現については肯定するのか? というような批判です。

 一月ほど前、週刊誌アエラでロリコンについての記事を書きました。現在の児童ポルノ規制がいかに抜け穴法で機能していないかについて。
 幼児の性器を象ったアダルトグッズが、幼女のイラストつきで「パパいれて」等という台詞と共にパッケージ化され一般流通している現実。小学低学年の女の子の水着姿の写真撮影イベントが、「ジュニアアイドル・イベント」として珍しくなく行われている現実。多くの国が例えアニメであっても幼児を利用した性表現を規制する中、私たちの社会はなぜこんなにもロリコンに寛容なのか。そのことについて議論するべきだ、という内容です。
 ロリコンに批判的な内容を書いたためでしょうか。ポルノ規制しろ! と書いたわけでもないのに、ろくでなし子さんの逮捕に伴い、私には「嘲笑」を含んだ批判が届きました。曰く、
「表現の自由を狭めて自らの首を絞めている」
「自分が嫌いなものは規制し、自分が好きなものを擁護しているだけ」
 要は、フェミニストは女性の立場にこだわり過ぎるあまり、表現の自由を規制する権力に荷担しているという事実に気がつけ! みたいな批判です。


こういった批判は、たしかに俗耳に入りやすい批判と言えるでしょう。私のなかにも、少なからず同じような見方がありました。しかし、北原氏は、この手の批判こそ男根主義(家父長主義)だと反論するのでした。

 断言しますけど、ロリコン表現を容認している世間と、女性器の猥褻化に荷担している世間って、一本の線でつながってるでしょ。っていうか、同じでしょ。私にとってはロリコン規制容認と、猥褻規制批判は、全く矛盾していません。また、もっと言えば、猥褻規制を表現の自由問題として議論するのもバカバカしいと思ってる。


なにが「猥褻」かなんて誰にも定義できない、なにが「公序良俗に反する」かなんて誰にも決められないのです。それは「猥褻」に限った話ではありません。なにが「幸せ」かなんて誰にも定義できないし誰にも決められないのです。それは自分のなかにある、自分で決める問題です。しかも、その”自分”も歴史的社会的な価値観や道徳観によって規定された”自分”でしかないのです。

むしろ北原氏が言わんとすることは、「猥褻」論議のなかに映し出されている女性を卑屈にするこの社会の理不尽さであり、卑屈になって生きていかざるをえない女性の理不尽な人生です。

女児の性器をかたどったアダルトグッズが何万個も売れている社会で、自分の性器をかたどったデータを渡すだけで犯罪になる。男性の性欲は某市長が「性風俗を利用しましょう」と大声で言えるくらいに「自然」のことで、性欲は女を利用して発散できることが大前提。女は「若いうちに産め」と性器の活用を求められ、一方で性について表現すると「ふしだら」と叩かれ、風俗で働くと「女は簡単に稼げていいな」などと貶められる。そして、こんなジェンダーの非対称性などは一部の一部だよ。それなのに、このようなことを一言でも言えば、「男も大変だ」「男こそ大変だ」「被害者ぶるな」「男を敵に回すのは得策ではない」などと言われたり、「フェミニストか?」と嘲笑されたり、「女と男はカラダが違う」などとムチャなこと言われて話にならないものだから、凸凹や不平等や理不尽さに対して、目をつむりながらも「嫌われない」「変だと思われない」「エキセントリックだと思われない」安全な道を信じて歩こうとする。私が知る限り、どんなに熱い怒りを抱えていても、男を刺激しないように過激さを抑え、丁寧に男を持ち上げながら、最も刺されにくい表現方法で、細心の注意を払いながら表現する女の表現者ってとても多いですよ。


ろくでなし子氏は、その対極にいた。ろくでなし子氏の作品は、そういった卑屈さを突破しようとする表現であった。だから「猥褻」であり「公序良俗に反する」として狙われ、みせしめにされたのではないでしょうか。

ろくでなし子氏の逮捕の根底にあるのは、男根主義という国家の(社会の)安寧と秩序の論理です。この社会が男中心の社会である限り、女性が女性の論理を貫こうとすれば(女が女であることを主張しようとすれば)、国家の(社会の)安寧と秩序の論理と対立せざるを得ないのです。

「殺せ!」とか「海に沈めろ!」とかいうような聞くに耐えないヘイト・スピーチが警察に守られて白昼堂々天下の公道でくり広げられているのに対して、ろくでなし子氏のような表現行為が「わいせつ頒布の罪」で摘発されみせしめにされる。この対比のなかに、私たちの社会の構造や国家の論理が示されていることを知る必要があるでしょう。

参考:
芸術家・ろくでなし子氏(五十嵐恵容疑者)の即時釈放
2014.07.15 Tue l 社会・メディア l top ▲