岡山県倉敷市で発生した女児監禁事件の全容があきらかになるにつれ、新潟県の柏崎市で拉致した少女を9年2ヶ月にわたって監禁したあの事件のおぞましさが脳裏によみがえってきたのは、私だけではないでしょう。
捜査員に対して、犯人は、女児のことを「私の妻です」と言ったそうです。犯行の動機についても、「(女児を)自分好みに育てたかった」と供述しているそうです。さらに、昨年12月には、1千万円弱の費用をかけてリフォームをおこない防音の部屋を作っていることから、「長期監禁を計画」していたのではないかと言われています。
朝日新聞デジタル
倉敷女児「自分好みに育てたかった」 長期監禁を計画か
それらの報道を見るに、犯人が新潟の事件に影響を受けているのは間違いないでしょう。
オタクの事件と言えば、オウムの一連の事件や宮崎勤事件を思い起こしますが、オタクが商品として消費されるなかで、いつの間にか私たちはオタクがもっているおぞましさ(負の側面)を忘れていたように思います。
捜査員が踏み込んだとき、布団に横になってアニメのビデオを見ていた女児が「何、何」と驚いた様子を見せていたという新聞記事がありましたが、それについてネットでは、「(女児は)リラックスしていた」「犯人は優しかったのではないか」などという書き込みで盛り上がっているそうです。それに対して、小林よしのり氏はブログで、ネットのオタクたちは「あまりにも想像力が貧困で呆れた」と書いていました。
新潟の事件の際も、どうして逃げなかったのか?という話がありましたが、監禁され脅かされれば抵抗する気力を失い為す術もない心理に陥るのは、誰でも考えればわかるはずです。まして被害者はまだ年端もいかない女の子なのです。私は、オタクたちのネットの書き込みは、想像力の貧困というより、彼らの”ゆがんだ願望”のように思えてなりません。それがおぞましさを抱くゆえんです。
私は、この事件のあと、1989年(新潟の事件の前年!)に出版された『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』(太田出版)を読み返しました。言うまでもなく、『Mの時代』は宮崎勤の事件を扱った本ですが、それを読むにつけ、ペドフィリア(小児性愛)が新潟の事件をきっかけに、大きく変質していることを痛感させられます。
『Mの世代』のなかの大塚英志氏と中森明夫氏の対談で、M君の犯罪を招いた背景には、家族の解体があり、「もう家族には戻れない」状況があると言ってました。中森氏は、「捨て子の倫理みたいなものが問われるんじゃないか」、どんなに寂しくても「捨て子であることに耐えることが大事ではないか」と言っていましたが、新潟の事件ではそういう「倫理(=エチカ)」もほとんど意味を失くしてしまったかのようです。
小林よしのり氏が言うように、犯人のような人間はネットや秋葉原の「少女萌えキャラ」の周辺にいくらでもいるというのはそのとおりでしょう。そして、彼らをとりまく状況が新潟の事件以降大きく変質していることを考えれば、彼らの妄想のなかにも犯人と通底するものがあると考えても不思議ではないでしょう。
犯人は49才のアニオタだったようですが、言うまでもなく彼は、フリーター第一世代であり、アニメに影響を受けた先行世代でもあるのです。本来なら充分分別をわきまえてもいい年齢ですが、その想像力の貧困や未熟な精神は、むしろ年齢を重ねれば重ねるほど、希薄な社会性によってより尖鋭化される一面をもっているのかもしれません。もちろん、妄想を実行に移すには千里の径庭を越えなければならず、決して短絡的にできるような犯罪でないことはたしかでしょう。しかし、実行に移すまでにはいかないにしても、その手前でとどまっている”危ない大人たち”は、私たちの身近にもいくらでもいるのです。三面記事が伝える「女の子が声をかけられた」「女の子にいたずら」などもそうでしょう。それは、女児だけでなく男児においても然りです。
秋葉原の事情に詳しい人の話では、アニメが好きだとか言って秋葉原を訪れる外国人観光客の多くは、実は児童ポルノが目的なのだそうです。Google に見られるように、欧米では児童ポルノはきびしく規制されています。その点、日本は児童ポルノの規制がゆるいので、海外では手に入りにくいその手のグッズが簡単に手に入るからです。それが政府が旗を振る「クールジャパン」のひとつの側面なのです。
オタクが市民権を得たというのは、AKB48に見られるように、オタクが資本の論理によって商業化され金のなる木になったからです。そうやって負の側面が脱色され、商品(消費者)としてもてはやされているからです。でも、AKB48のブームの先に児童ポルノの問題があることも忘れてはならないでしょう。
私たちは、児童ポルノやロリコンの問題を、おためごかしの建前論ではなく、身近な問題として、もっと深刻に考える必要があるのではないか。反動だとか短絡志向だとか批判されるのを承知で言えば、それこそ全体主義でもって全体主義を制すような考え方も必要ではないかと思ったりもするのです。
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朝日新聞デジタル
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オタクの事件と言えば、オウムの一連の事件や宮崎勤事件を思い起こしますが、オタクが商品として消費されるなかで、いつの間にか私たちはオタクがもっているおぞましさ(負の側面)を忘れていたように思います。
捜査員が踏み込んだとき、布団に横になってアニメのビデオを見ていた女児が「何、何」と驚いた様子を見せていたという新聞記事がありましたが、それについてネットでは、「(女児は)リラックスしていた」「犯人は優しかったのではないか」などという書き込みで盛り上がっているそうです。それに対して、小林よしのり氏はブログで、ネットのオタクたちは「あまりにも想像力が貧困で呆れた」と書いていました。
新潟の事件の際も、どうして逃げなかったのか?という話がありましたが、監禁され脅かされれば抵抗する気力を失い為す術もない心理に陥るのは、誰でも考えればわかるはずです。まして被害者はまだ年端もいかない女の子なのです。私は、オタクたちのネットの書き込みは、想像力の貧困というより、彼らの”ゆがんだ願望”のように思えてなりません。それがおぞましさを抱くゆえんです。
私は、この事件のあと、1989年(新潟の事件の前年!)に出版された『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』(太田出版)を読み返しました。言うまでもなく、『Mの時代』は宮崎勤の事件を扱った本ですが、それを読むにつけ、ペドフィリア(小児性愛)が新潟の事件をきっかけに、大きく変質していることを痛感させられます。
『Mの世代』のなかの大塚英志氏と中森明夫氏の対談で、M君の犯罪を招いた背景には、家族の解体があり、「もう家族には戻れない」状況があると言ってました。中森氏は、「捨て子の倫理みたいなものが問われるんじゃないか」、どんなに寂しくても「捨て子であることに耐えることが大事ではないか」と言っていましたが、新潟の事件ではそういう「倫理(=エチカ)」もほとんど意味を失くしてしまったかのようです。
小林よしのり氏が言うように、犯人のような人間はネットや秋葉原の「少女萌えキャラ」の周辺にいくらでもいるというのはそのとおりでしょう。そして、彼らをとりまく状況が新潟の事件以降大きく変質していることを考えれば、彼らの妄想のなかにも犯人と通底するものがあると考えても不思議ではないでしょう。
犯人は49才のアニオタだったようですが、言うまでもなく彼は、フリーター第一世代であり、アニメに影響を受けた先行世代でもあるのです。本来なら充分分別をわきまえてもいい年齢ですが、その想像力の貧困や未熟な精神は、むしろ年齢を重ねれば重ねるほど、希薄な社会性によってより尖鋭化される一面をもっているのかもしれません。もちろん、妄想を実行に移すには千里の径庭を越えなければならず、決して短絡的にできるような犯罪でないことはたしかでしょう。しかし、実行に移すまでにはいかないにしても、その手前でとどまっている”危ない大人たち”は、私たちの身近にもいくらでもいるのです。三面記事が伝える「女の子が声をかけられた」「女の子にいたずら」などもそうでしょう。それは、女児だけでなく男児においても然りです。
秋葉原の事情に詳しい人の話では、アニメが好きだとか言って秋葉原を訪れる外国人観光客の多くは、実は児童ポルノが目的なのだそうです。Google に見られるように、欧米では児童ポルノはきびしく規制されています。その点、日本は児童ポルノの規制がゆるいので、海外では手に入りにくいその手のグッズが簡単に手に入るからです。それが政府が旗を振る「クールジャパン」のひとつの側面なのです。
オタクが市民権を得たというのは、AKB48に見られるように、オタクが資本の論理によって商業化され金のなる木になったからです。そうやって負の側面が脱色され、商品(消費者)としてもてはやされているからです。でも、AKB48のブームの先に児童ポルノの問題があることも忘れてはならないでしょう。
私たちは、児童ポルノやロリコンの問題を、おためごかしの建前論ではなく、身近な問題として、もっと深刻に考える必要があるのではないか。反動だとか短絡志向だとか批判されるのを承知で言えば、それこそ全体主義でもって全体主義を制すような考え方も必要ではないかと思ったりもするのです。
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