
柴崎友香「春の庭」が今回(第151回)芥川賞を受賞したので、『文学界』(6月号)に掲載されていた同作品をあたらめて読みました。
この小説の主人公は、世田谷区にある築31年のアパート「ビューパレス サエキⅢ」に住む「太郎」と「西」の二人です。そして、話の軸になるのは、アパートの裏にある「水色の板壁の家」を撮った20年前の写真集「春の庭」です。「春の庭」は、当時「水色の板壁の家」に住んでいたCMディレクター「牛島タロー」と小劇団の女優「馬村かいこ」の夫婦が自分たちの生活を撮影したものでした。
高校3年のときに、「春の庭」を見た「西」は、写真集におさめられた二人の暮らしのスタイルに感動しあこがれたのでした。
実はその写真集を眺めていたときに、結婚とか愛とかっていいのかもしれない、と初めて思った。写真の中の牛島タローと馬村かいこは、満ち足りて見えた。愛する人とともに暮らすことは楽しそうだ、とあのときほど感じたことはない。
それ以来、「春の庭」に心を引き寄せられた「西」は、後年、引っ越し先を探すために見ていた不動産の賃貸サイトで、「水色の板壁の家」を偶然見つけ、その裏手にある「ビューパレス サエキⅢ」をわざわざ借りたのでした。
アパートの住人や職場の同僚や離れて暮らす家族との小さなエピソード。そのエピソードが織りなす淡々とした日常。そんな日常のなかで、写真集「春の庭」は、いわば太い縦糸の役目を担っています。
希望でもない癒しでもない慰めでもない、もちろん夢でもない。この小説は、そんな凹凸のある感情とは無縁です。強いてあげれば、「太郎」のなかにある孤独くらいです。
味わい深い小説と言えば、そう言えるのかもしれません。しかし、私には、どこかなじめないものがありました。芥川賞の選評がまだ出ていませんので詳細はわかりませんが、このような小説を村上龍や山田詠美がどんな理由で押したのか、私には興味があります(もちろん皮肉ですが)。
先日、テレビで「となりのトトロ」を見ていたら、前回芥川賞を受賞した小山田浩子の「穴」が連想されてなりませんでした。私もうっかりしていたのですが、「となりのトトロ」とよく似ているなと思ったのです。でも、芥川賞の選評では、そういった指摘はありませんでした。芥川賞なんてその程度のものと言ったら言いすぎでしょうか。
「春の庭」に関しては、途中の視点の移動もそんなに「効果的」とは思えませんでしたし、話のなかにちりばめられたメタファーも同様です。たしかに、俯瞰的な風景描写や微細な生物や事物へのこだわりに作者の個性が見えますが、それと話(エピソード)の平板さが「効果的」に接続されているとは言い難い気がします。尻切れトンボのエピソードのその先には、日常の裂け目があるはずなのですが、それがいっこうに浮かびあがってこないのです。
「春の庭」にあるような”文学的なるもの”のその前提をまず疑う必要があるのではないか。奇を衒った実験的な手法を用いていますが、底にあるのはきわめて古い”文学的”なる構造です。
芥川賞は、商業的な意味合いで「新人の登竜門」ではあるのかもしれませんが、必ずしもあたらしい文学の登場をうながすものではないということをあらためて感じさせられた気がします。