朝日新聞デジタル
(論壇時評)〈個人的な意見〉 「愛国」の「作法」について
朝日新聞の誤報に対するバッシングについて、高橋氏はつぎのように書いていました。
その中には、有益なものも、深く考えさせられるものもある。だが、ひどいものも多い。ひどすぎる。ほんとに。罵詈雑言(ばりぞうごん)の嵐。そして、「反日」や「売国」といったことばが頻出する。
総理大臣はじめ政権与党のなかに、「反日」や「売国」を煽る政治家が何人もいるのですから、”煽られる人たち”がますますエスカレートするのは当然でしょう。国家公安委員長という警察行政のトップが、その政治信条にシンパシーを表明するほどヘイト・スピーチのメンバーと親しい関係にあることを考えれば、ヘイト・スピーチに対して刑事訴迫を求める国連の勧告もなんだか悪い冗談のように思えてきます。
自称「愛国者」たちは、「愛国」がわかっていないのではない。「愛」が何なのかわかっていないのだ、とおれは思う。こんなこといってると、おれも、間違いなく「反日」と認定されちまうな。いやになっちゃうぜ。
でも、高橋氏のように、ただ嘆くばかりではなにもはじまらないのです。これもおなじみの常套句と言えます。
私は、高橋氏と違って、やはり「自称『愛国者』たちは、『愛国』がわかっていない」のだと思います。そこには、「愛国」と「売国」が逆さまになった「戦後」という時代の背理が露呈されているのです。まず「戦後」を疑うことでしょう。高橋氏と親しい加藤典洋氏のことばを借用すれば、敗戦を「終戦」と言い換えた虚妄の時代の、その「ねじれ」や「汚れ」を直視することではないでしょうか。
たとえば、加藤氏が『敗戦後論』で紹介していた大岡昇平のつぎのような文章。
わが家の日の丸は無論、終戦後米袋に化けた。そのうち破れて、その用をなさなくなったから、すててしまった。以来うちには日の丸はない。
日本は再び独立し、勝手な時に日の丸を出せることになったが、僕はひそかに誓いを立てている。外国の軍隊が日本の領土上にあるかぎり、絶対に日の丸をあげないということである。
捕虜になってしまったくらいで弱い兵隊だったが、これでもこの旗の下で、戦った人間である。われわれを負かした兵隊が、そこらにちらちらしている間は、日の丸を上げない。これが元兵隊の心意気というものである。(『白地に赤く』1957年)
自衛隊幹部なんかに成り上がった元職業軍人が神聖な日の丸の下に、アメリカ風なお仕着せの兵隊の閲兵なんかやっている光景を見ると、胸くそが悪くなる。恥知らずにも程がある。
捕虜収容所では国旗をつくるのは禁ぜられていた。帰還の日が来て、船へ乗るためタクロバンの沖へ筏でひかれて行ったら、われわれが乗るのは復員船になり下がった「信濃丸」で、船尾に日の丸が下っていた。
海風でよごれたしょぼたれた日の丸だった。
私が愛する日の丸は、こういう汚れた日の丸で、「建国記念日復活促進国民大会」なんかでふり回されるおもちゃの日の丸なんか、クソ食らえなのだ。(同前)
ここにあるのが、「文学のことば」です。それは、「愛国」とはないかということを考えさせられることばなのです。
赤坂真理は、『愛と暴力の戦後とその後』で、「戦後」の日本は、「政治は右翼的でありながら、言論や教育は左翼的だった」と書いていましたが、「左翼的」であったかどうかは別にしても、言論や教育に平和憲法と共有するリベラルな理念が存在していたのは事実でしょう。でも、それは、象徴天皇制とワンセットになった占領政策の置き土産でしかなかったのです。だから、今のようにカルトな右翼政権が生まれ、社会が「本音モード」に変われば、もちつもたれつの「双生児的関係」(アメリカの核の傘の下での「まれに見る不思議な幸福さ」)が、反故にされるのは当然でしょう。高橋源一郎氏の嘆きも、そんな「まれに見る不思議な幸福さ」への郷愁にすぎないように思います(それこそが「閉された言語空間」というものです)。
一水会の鈴木邦男氏は、雑誌『創(9・10月号)のコラム(「言論の覚悟」真の愛国心とは何か)で、戦争前、東條英機のもとに、一般国民から「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような「攻撃・脅迫」めいた手紙が段ボール箱に何箱も届いたというお孫さんの話を紹介していましたが、そうやって国民もマスコミもみんな一緒になって戦争を煽っていたのです。東條英機らは、そんな声に押されるように、「人間たまには清水の舞台から飛び降りるのも必要だ」という有名なセリフを残して、無謀な戦争へと突き進んでいったのでした。でも、戦争が終わったら、いつの間にか国民は、軍部に騙された「被害者」になっていたのです。
加藤典洋氏は、これを「歪み」あるいは「汚れ」と表現したのですが、そんな大衆の欲望と感情が生み出すいびつな光景を冷徹な目で描出するのが「文学のことば」でしょう。私たちが作家・高橋源一郎に求めるのはそんな(大岡昇平のような)ことばなのです。