加藤典洋氏は、ツイッターで、今まで朝日新聞の購読をやめていたけど、今回のバッシングを機会に購読を再開しようと思っていると書いていましたが、私はその発言にはどこか違和感を抱かざるをえませんでした。
加藤氏は、今まで何度となくくり返されてきた「政治と文学」論争について、『敗戦後論』のなかで、つぎのように書いていました。
しかし、私は、こういった「文学の本質」が文春や新潮に対する文芸家たちの事なかれ主義を招いているように思えてならないのです。
このような「一線を越えた」文春や新潮に対して、加藤氏が言うような”文学絶対主義”は、もはやただの方便にすぎないのではないか。
そもそも文学はそんな特権的なものなのでしょうか。「高尚」な文学談議と「売国」「反日」の見出しが躍る雑誌には、どう考えても整合性はないのです。「私たちも不本意でやっているのです。先生にいい小説を書いてもらうために、あれは商売としてやっているだけです」というような編集者の弁解を真に受けているのでしょうか。でも、読者はそんなアクロバティックな観念で小説を読んでいるわけではないし、そんな弁解を真に受けるほど世間知らずではないのです。
私は、朝日新聞を応援するという加藤氏のベタな書き込みを読んだとき、テレビのワイドショーにコメンテーターとして出ている大学教師や評論家や有名ブロガーたちのことを想起せざるをえませんでした。彼らの書くものは、それなりに考えさせられるものがないわけではありません。ところが、テレビの前では、誰でも言えるような実にありきたりでつまらないことしか言えないのです。
もちろん、そこには、”お茶の間の論理”に媚びを売る彼らの”志操”の問題もあるでしょう。でも、それだけでなく、むしろその落差のなかに、書くことの本質が示されているように思えてならないのです。私たちは、ものを書くことによって、現実を仮構しているのではないか。私たちが思ったり考えたりすることも、書きことばに直せばたちまち”常套句”に収斂され、あらかじめ定められたものに虚構化されるのではないか。私たちは、それを「現実」と思い込んでいる(思い込まされている)だけではないのか。コメンテーターたちが書いているものも、ただの手慰めな虚構にすぎず、彼らは、ときと場合によってそれらを使い分けているだけではないのか。
ものを書くということは所詮、おためごかしにすぎないのです。まして今のように、”お茶の間の論理”が尖鋭化しカルト化すれば、ものを書くことはますます現実と遊離しトンチンカンに見えてきます。仮に”常套句”に抗い、虚構のなかに真実を見つけることばがあるとすれば、それは、大岡昇平のように、無残で過酷な現実に打ちのめされた先にある、吉本隆明が言う「還相」の過程で獲得したことばしかないのではないか。それを「文学のことば」と言えばそう言えるでしょう。朝日新聞を応援すると表明することに、そんな真実を見つけようとする「態度」があるとはとても思えないのです。
「文学的態度」から言えば、朝日新聞なんてどうだっていいのです。バッシングのいかがわしさと朝日新聞を応援するということはまったく次元の異なる話です。それよりまず隗より始めよで、文春や新潮と自分との関係を問い直すことが肝要でしょう。「一線を越えた」文春や新潮こそ、「文学のことば」を政治に従属させようとする反動と言えるのです。そんな現実と拮抗することのないことばに、真実なんてあろうはずもありません。
加藤氏は、今まで何度となくくり返されてきた「政治と文学」論争について、『敗戦後論』のなかで、つぎのように書いていました。
文学は、時の権力に対してどれだけ芸術的な抵抗をしたか、という観点ではかられるべきではない。このような考えなら、これまでもしばしばたとえば芸術至上主義などによって示されてきた。(略)
しかし、文学は、そのような「観点」、芸術という観点、芸術的抵抗という観点、国家という観点、つまり文学という行為の外に立ち、これにいわばイデオロギーとして働きかける、どのような「観点」の正しさにも抵抗するのではないか、それが文学の本質なのではないか。
(『敗戦後論』所収「戦後後論」)
しかし、私は、こういった「文学の本質」が文春や新潮に対する文芸家たちの事なかれ主義を招いているように思えてならないのです。
朝日新聞バッシングに血道を上げる雑誌には「売国」「国賊」「反日」の大見出しが躍る。敵を排撃するためには、あらん限りの罵詈(ばり)雑言を浴びせる。まるで戦前・戦中の言論統制だ。ネットではおなじみの風景だが、活字メディアでも「市民権」を得つつある。「嫌韓本」で一線を越えた出版界には、もはや矜恃(きょうじ)もタブーもないのかもしれない。安倍政権が「戦争できる国」へ突き進む中、「売国奴」呼ばわりの横行は、あらたな「戦前」の序章ではないのか。 (林啓太、沢田千秋)
東京新聞
朝日バッシング 飛び交う「売国」「反日」
朝日新聞に批判的な向きも、『週刊文春』九月四日号には驚いたに違いない。メーン見出しは「朝日新聞『売国のDNA』」。朝日新聞が取り消し・訂正した「吉田調書」や慰安婦報道にとどまらず、「サンゴ事件」など朝日の過去の誤報を持ち出しながら「売国のDNAは脈々と受け継がれている」と指弾した。
(同上)
このような「一線を越えた」文春や新潮に対して、加藤氏が言うような”文学絶対主義”は、もはやただの方便にすぎないのではないか。
そもそも文学はそんな特権的なものなのでしょうか。「高尚」な文学談議と「売国」「反日」の見出しが躍る雑誌には、どう考えても整合性はないのです。「私たちも不本意でやっているのです。先生にいい小説を書いてもらうために、あれは商売としてやっているだけです」というような編集者の弁解を真に受けているのでしょうか。でも、読者はそんなアクロバティックな観念で小説を読んでいるわけではないし、そんな弁解を真に受けるほど世間知らずではないのです。
私は、朝日新聞を応援するという加藤氏のベタな書き込みを読んだとき、テレビのワイドショーにコメンテーターとして出ている大学教師や評論家や有名ブロガーたちのことを想起せざるをえませんでした。彼らの書くものは、それなりに考えさせられるものがないわけではありません。ところが、テレビの前では、誰でも言えるような実にありきたりでつまらないことしか言えないのです。
もちろん、そこには、”お茶の間の論理”に媚びを売る彼らの”志操”の問題もあるでしょう。でも、それだけでなく、むしろその落差のなかに、書くことの本質が示されているように思えてならないのです。私たちは、ものを書くことによって、現実を仮構しているのではないか。私たちが思ったり考えたりすることも、書きことばに直せばたちまち”常套句”に収斂され、あらかじめ定められたものに虚構化されるのではないか。私たちは、それを「現実」と思い込んでいる(思い込まされている)だけではないのか。コメンテーターたちが書いているものも、ただの手慰めな虚構にすぎず、彼らは、ときと場合によってそれらを使い分けているだけではないのか。
ものを書くということは所詮、おためごかしにすぎないのです。まして今のように、”お茶の間の論理”が尖鋭化しカルト化すれば、ものを書くことはますます現実と遊離しトンチンカンに見えてきます。仮に”常套句”に抗い、虚構のなかに真実を見つけることばがあるとすれば、それは、大岡昇平のように、無残で過酷な現実に打ちのめされた先にある、吉本隆明が言う「還相」の過程で獲得したことばしかないのではないか。それを「文学のことば」と言えばそう言えるでしょう。朝日新聞を応援すると表明することに、そんな真実を見つけようとする「態度」があるとはとても思えないのです。
「文学的態度」から言えば、朝日新聞なんてどうだっていいのです。バッシングのいかがわしさと朝日新聞を応援するということはまったく次元の異なる話です。それよりまず隗より始めよで、文春や新潮と自分との関係を問い直すことが肝要でしょう。「一線を越えた」文春や新潮こそ、「文学のことば」を政治に従属させようとする反動と言えるのです。そんな現実と拮抗することのないことばに、真実なんてあろうはずもありません。